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紀元前1250年ごろの[[ヒッタイト]]の碑文には、ヒッタイトの西にある敵国として、ルッカー([[リュキア]])と並んでカルキシャまたはカリヤという名前が見え、カリアを意味していると見られる<ref>Hajnal (2001) pp.2-3</ref>。
 
[[ヘロドトス]]によると、[[エジプト第26王朝]]の[[プサメティコス1世]]は[[イオニア]]とカリアの傭兵による軍事力を背景としていた。それを裏付けるようにエジプトの[[イシス]]像の土台には[[カリア語]]を記したプサメティコス1世時代の碑文が残る<ref name="adiego1">Adiego (2007) p.31</ref>。南の{{仮リンク|ブヘン|en|Buhen}}に至る[[ナイル川]]沿いにカリア語の落書きが残っており、これらは[[ヌビア]]遠征に従軍したカリア人によるものと考えられている<ref name="adiego1"/>。
 
その後、カリア本土を含むアナトリアは[[アケメネス朝]]に服属するが、紀元前4世紀になると[[サトラップ]]であった{{仮リンク|ヘカトムノス|en|Hecatomnus}}が事実上の王としてカリアに君臨した。ヘカトムノスの子の[[マウソロス]]は権勢を振るい、その没後には巨大な[[マウソロス霊廟]]がハリカルナッソスに建造された。紀元前334年にヘカトムノスの娘のアダは[[アレクサンドロス3世]]に降伏し、カリアの統治者として認められた。