「安部英」の版間の差分

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[[血友病]]治療の権威として知られ、[[1983年]]に設置された[[厚生省]]エイズ研究班の班長を務めた。研究班における安部の態度には曲折があり、当初は[[非加熱製剤]]の全面的使用禁止を含めた強固な対策の必要性を主張していた<ref>1983年6月18日 読売新聞</ref>が、様々な圧力とのやりとりの中で軟化し、結果的には一部の反対を押し切って非加熱製剤の使用継続を決定。その後、[[1985年]]の5月から6月にかけて、帝京大学医学部附属病院(診療を担当した第一内科の責任者が安部)において、[[血友病]]の男性患者が非加熱製剤を投与された。その男性は[[ヒト免疫不全ウイルス|HIV]]に感染し、[[1991年]]12月にエイズで死亡したとされる。
 
[[厚生省]]生物製剤課課長補佐であった増田和茂は安部に対し、非加熱製剤に代えてクリオ製剤の使用開始を勧告すべきと訴えたが、「血友病専門家でない君に何がわかるんだ」と拒否されたと証言している{{Sfn|中村1998|p=125}}。また、安部の弟子であった帝京大学教授[[風間睦美]]は、厚生省エイズ研究班血液製剤小委員会の中間報告を作成する過程でクリオ製剤の適応を一定程度認める見解を述べたが、これに対し安部は風間を「これは風間先生、非常に危惧しなきゃならないぞ」{{Sfn|中村1998|p=126}}、「あなたは終生浮かばれないぞ」{{Sfn|中村1998|p=126}}などと恫喝とも受け取れる言葉を交えて詰問した{{Sfn|中村1998|p=126}}。安部による詰問の後、小委員会は非加熱の血液製剤の継続使用を最終答申した。これについて中村玄二郎は、安部が小委員会に干渉した結果、多くの血友病患者をエイズに感染させてしまったと評価している{{Sfn|中村1998|pp=126-127}}。また[[厚生省]]生物製剤課課長補佐であった増田和茂は、安部に対して非加熱製剤に代えてクリオ製剤の使用開始を勧告すべきと訴えたが、「血友病専門家でない君に何がわかるんだ」と拒否されたと証言している{{Sfn|中村1998|p=125}}。
 
1990年代に入って薬害エイズ事件が明らかになるにつれて、血友病治療の権威としての非加熱製剤の使用に関する責任が注目された。TVの取材等に対して当初は冷静な受け答えをしていたが、やがて[[認知症]]を患い、激昂してくると感情を堪えきれないようになり取材者に対して攻撃的な表情・物腰・話しぶりをするようになっていった。