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== 概要 ==
1431年、ジャンヌ・ダルクは[[イングランド]]支持の聖職者により異端として火刑に処されたが、死後の再審により1456年に[[ジャンヌ・ダルク復権裁判|復権]]。
1869年に、[[フランス]]の[[オルレアン]]の司教{{仮リンク|フェリックス・デュパンルー|en|Félix Dupanloup}}がジャンヌの列聖を申請した{{sfn|ペルヌー|2016|p=121}}。1909年4月18日にローマ教皇[[ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世]]により[[列福]]。その後、1920年5月16日に教皇ベネディクトゥス15世により列聖される<ref>[http://www.newadvent.org/cathen/08409c.htm St. Joan of Arc Catholic Encyclopedia]</ref>。そして、フランスのカトリック教徒とフランスのためにイングランドと戦うことを神によって命じられたという話に触発された兵士たちの守護聖人となる。多くのフランス政権は
== 聖人への経路 ==
=== ジャンヌの死と15世紀 ===
宗教裁判所によって破門されたか、調査された他の聖人と同様に、(例えば[[アレクサンドリアのアタナシオス]]、[[アビラのテレサ]]と[[十字架のヨハネ]])ジャンヌは審問の法廷によって審理された。ジャンヌの場合は、法廷はルーアンの広場で彼女の処刑に至って、イングランド(北フランスを占領していた)によって影響されていた。
フランスが1449年にルーアンを取り戻したとき、一連の調査は開始された。ジャンヌの生存している家族、母の{{仮リンク|イザベル・ロメ|en|Isabelle Romée}}と2人の兄{{仮リンク|ピエール・ダルク|fr|Pierre d'Arc}}とジャン(オルレアンの包囲戦でジャンヌと共に戦った{{sfn|ペルヌー|2016|p=47}})は、教皇[[ニコラウス5世 (ローマ教皇)|ニコラウス5世]]に彼女の事件の再審を請願した。正式な訴えは、教皇[[カリストゥス3世 (ローマ教皇)|カリストゥス3世]]の庇護を受け、ジャン・ブレアル異端検察総監によって、1455年に行われた。イザベルは、ノートルダム大聖堂で上告事件を審理する裁判の開会式で熱のこもった訴えで彼女の娘の名誉を明らかにすることを求める演説した。 ブレアル異端検察総監は教会法に違反した法廷によって処刑された殉教者として記述した事件の証拠をまとめ、ジャンヌは1456年7月7日に解放された<ref>Pernoud, Regine. "Joan of Arc by Herself and Her Witnesses". Scarborough House, 1994; pp 268-269.</ref>。オルレアン市は1432年から
訴えの後まもなく、教皇[[ピウス2世 (ローマ教皇)|ピウス2世]]は回顧録で、ジャンヌについて賛成を示す箇所を書いている。
=== 16世紀 ===
宗教戦争の間、[[プロテスタント]]の
そして、匿名の著者はジャンヌの伝記を著した。それは、1500年頃に「教皇[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]の命令によって」編集されたと述べた<ref>[https://books.google.com/books?id=-5AnyffsHu4C&pg=PA111&lpg=PA111&dq=The+First+Biography+of+Joan+of+Arc:+Translated+and+Annotated+by+Daniel+Rankin+and+Claire+Quintal&source=bl&ots=RU49D0KMCn&sig=R3OoYfg6Tm_vCkfzE9JgxVbJQVM&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwirmKPn0obTAhUO12MKHduwDDkQ6AEIJDAC#v=onepage&q=The%20First%20Biography%20of%20Joan%20of%20Arc%3A%20Translated%20and%20Annotated%20by%20Daniel%20Rankin%20and%20Claire%20Quintal&f=false ''The First Biography of Joan of Arc: Translated and Annotated by Daniel Rankin and Claire Quintal''] [[University of Pittsburgh Press]] (1964) [[Google Books]] 2 April 2017</ref>。
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{{quotation|「フランスの独立が脅かされる時は、優れた英雄が出て必ず奇跡をもたらしてくれることを、あの有名なジャンヌ・ダルクは証明している。」|『奇跡の少女ジャンヌ・ダルク』 2頁}}
翌年の1804年にナポレオンは皇帝となり、自己正当化と彼の国家主義の目的のためにジャンヌを
ゴワの作品は1855年にドフィーヌ広場へ移転され<ref>[http://vanderkrogt.net/statues/object.php?webpage=ST&record=frce064 "Orleans: Jeanne d'Arc guerrière"] ''vanderkrogt.net'' March 25, 2017</ref>、デニス・フォヤティエによるジャンヌ像に置き換えられた<ref>[http://vanderkrogt.net/statues/object.php?webpage=ST&record=frce061 "Orleans: Jeanne d'Arc"] ''vanderkrogt.net'' March 25, 2017</ref>。
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1869年に、ジャンヌがオルレアンの包囲を解放した440周年を記念して、オルレアンの司教フェリックス・デュパンルーは、オルレアンへの経路の間にジャンヌが入ったり解放した町を含む司教たちを招待した<ref>[https://books.google.com/books?id=xgcFAAAAQAAJ&pg=PA207&lpg=PA207&dq=%22Joan+of+Arc%22+Cardinal+Dupanloup+pius&source=bl&ots=Ll6WReJEDO&sig=YrSEGmuZFjUT4STd_M4sTw76la4&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjkkL-ky-DXAhUJjFQKHdNgCtU4ChDoAQg8MAU#v=onepage&q=%22Joan%20of%20Arc%22%20Cardinal%20Dupanloup%20pius&f=false "The Festival of Joan of Arc at Orleans"] ''Evangelical Christendom'' [[Evangelical Alliance]] (June 1, 1869) Vol X; pps. 206-207 [[Google Books]] November 29, 2017</ref>。アンリ-アレクサンドル・ワロン<ref>[https://books.google.com/books?id=-JcLOEKvJ2kC&pg=PA156&lpg=PA156&dq=%22Joan+of+Arc%22+1869+Dupanloup+pius&source=bl&ots=v1KiwhHE__&sig=kRf26JPnY2W_5F6nfoM9XLQnxXI&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiZy9CwzODXAhWhilQKHXD3CdYQ6AEIUTAM#v=onepage&q=%22Joan%20of%20Arc%22%201869%20Dupanloup%20pius&f=false "Joan of Arc"] ''The Past in French History'' by [[Robert Gildea]] (1994) [[Yale University Press]] p. 156; [[Google Books]] November 27, 2017</ref>の支援を受けて、デュパンルー司教は、教皇[[レオ13世 (ローマ教皇)|レオ13世]]に、ジャンヌが正式に列聖されるための請願書(出席している高官によって署名される)を提出した<ref>[https://books.google.com/books?id=iUIaBQAAQBAJ&pg=PA269&lpg=PA269&dq=%22Not+only+Orl%C3%A9ans+and+France+but+the+whole+world+venerate+God%E2%80%99s+acts+through%22&source=bl&ots=is-DDAH6Ma&sig=SeL30upTK0hLB-RmHzDeEOhQChM&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiIj7ucrNvXAhVrrFQKHQ8YBm8Q6AEIKDAA#v=onepage&q=%22Not%20only%20Orl%C3%A9ans%20and%20France%20but%20the%20whole%20world%20venerate%20God%E2%80%99s%20acts%20through%22&f=false "Joan the Saint"] ''The Maid of Orleans: The Life and Mysticism of Joan of Arc'' by [[Sven Stolpe]] (1956) [[Pantheon Books]]; reprint (2014) [[Ignatius Press]]; p. 269 [[Google Books]] November 27, 2017</ref>。だが、[[普仏戦争]]は更なる行動を延期される。
宣誓証言は1874年に収集され始め、ルイジ・ビリオ枢機卿が1876年に受け取った。デュパンルーの後継者であるピエール-ヘクター・コウリエ司教は、ジャンヌの裁判と復権からジャンヌの行いと証言を認証するための尋問を指示した。1894年1月27日、ローマ教皇庁(ベネデット・アロイシ-マセッラ枢機卿, アンジェロ・ビアンキ、ブノワ-マリー・ランジュ、 ルイージ・マッキー、カミッロ・マゼッラ、ポール・メルシャーズ、 マリオ・モシェニ、ルシード・パロッチ、フルコ・ルイジ・ラッフォ-シッラ、そしてイシドロ・ヴェルガ)の
=== 20世紀
だが、聖人への道は順調に進まなかった。1902年8月20日、(ローマ法王による枢機卿の正式な会合){{仮リンク|教会会議|en|Papal consistory}}は[[聖人暦]]にジャンヌを加えることを拒否した。
{{quotation|「ジャンヌは[[パリ包囲戦 (1429年)|パリ包囲戦]]を[[聖母マリア]]の誕生日に開始した。彼女の捕獲は、「彼女が神から送られたという彼女の主張は虚偽だった」という「証明」である。彼女は牢から脱出しようとした。死で脅かされた後の彼女の放棄。そして、彼女の潔白対する疑い。」|<ref>[https://newspapers.library.in.gov/cgi-bin/indiana?a=d&d=IJ19020907.1.24 "Was Not Made a Saint: Why Consistory Refused to Canonize Joan of Arc"] ''[[Indianapolis Journal]]'' (7 September 1902), p. 12 ''newspapers.library.in.gov'' 25 March 2017</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=srRCAQAAIAAJ&pg=PA612& "Joan of Arc Not to be Canonized"] ''[[Harper's Weekly]]'' (11 April 1903) Vol. XLVII; No. 2416, p. 610 [[Google Books]] 25 March 2017</ref>}}
1903年11月17日、ローマ教皇庁は、教皇ピウス10世の命令でジャンヌの根拠を議論するために会合する<ref>[http://newspapers.bc.edu/cgi-bin/bostonsh?a=d&d=BOSTONSH19031003-01.2.13 "Editorial Notes"] ''The Sacred Heart Review'' [[Boston College]] (3 October 1903) Vol. 30; No. 14, p. 5 ''newspapers.bc.edu'' 26 March 2017</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=5bqKct7ChQYC&pg=PA845& "Notes"] ''[[The Tablet]]'' (28 November 1903) Vol. 102; No. 3316, p. 845 [[Google Books]] 26 March 2017</ref>。ジャンヌの英雄的な美徳を宣言する
3つの奇跡の
列福式は1909年4月18日に行われ、セバスティアーノ・マルティネッリ枢機卿とマリアーノ・ランポッラガが主宰した。スタニスラス・トゥシェ司教が
ジャンヌの列福は、フランスの鋳造された硬貨と記念メダイの作成を容易にするジャンフィア転写彫刻機(ダイ彫刻パンタグラフとも呼ばれる)の発明とほぼ一致した。この発明は、既に確立されたフランスの彫刻の伝統とともに、ジャンヌの列福に新たな要素を追加した。
1911年には、エドモンド・リッチャーの初期のジャンヌ・ダルク時代の歴史である1625年から1630年にかけて書かれたオルレアンの乙女の物語は、1911年にアンリとジュール・デスクレエによって2巻で出版された<ref>[http://www.prdl.org/author_view.php?s=10&limit=10&a_id=872&sort= "Edmond Richer (1560-1631)"] ''[[Post-Reformation Digital Library]]''. Retrieved 15 September 2017</ref>。
第一次世界大戦中、フランス軍はジャンヌの
ジャンヌの列聖は1920年5月16日に行われ、ジャンヌの家族の子孫140人を含む60,000人以上がこの式に出席した。
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{{quotation|「ジャンヌ・ダルクの記憶の神聖さを永遠に結びつける彼女の使命の最後の部分を果たしている。そして、私たち(かつての仇敵イングランドとフランス)はジャンヌの精神で人類の利益のために団結し続けよう。」|<ref>[https://news.google.com/newspapers?nid=Fr8DH2VBP9sC&dat=19200517&printsec=frontpage&hl=en "Mission is Fulfilled: Spirit of Joan of Arc Unites Britain and France"] [[Edwin Leland James|Edwin L. James]] ''[[Montreal Gazette]]'' (17 May 1920), p. 1 [[Google News Archive]] 22 May 2016</ref>。
}}
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[[File:St Joan of Arc Chapel.jpg|200px|thumb|{{仮リンク|マーケット大学|en|Marquette University}}の{{仮リンク|聖ジャンヌ・ダルク礼拝堂|en|St. Joan of Arc Chapel}}。(フランスより移築)]]
ジャンヌ・ダルクの記念日は5月30日である<ref>[http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=053001 5月30日 聖ジャンヌ・ダルクおとめ 女子パウロ会公式サイト Laudate]</ref>。1968年の改革は、より多くのヨーロッパ人以外の人々のための余地を確保するために、多くの中世ヨーロッパの聖人の日を一般のカレンダーから外したが、ジャンヌの祝祭日は、特にフランスの多くの地方および地域の教会カレンダーで祝われている。列聖以来、10年の間に世界中の多くのカトリック教会にジャンヌ・ダルクの名前が付けられている。
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