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平清盛など
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'''外祖父'''(がいそふ)は、ある人からみた[[母親]]の[[父親]]、母方の[[祖父]]<ref>{{kotobank|外祖父|デジタル大辞泉}}</ref><ref>{{kotobank|外祖父|大辞林 第三版}}</ref>。
 
[[日本の歴史]]においては、有力な貴族などが娘を天皇に嫁がせ、その子が幼くして天皇として即位すると外祖父となり、[[外戚]]の中でも特に大きな権力を握ることがしばしばあった<ref name="izawa">{{Cite book|和書|author=[[井沢元彦]]|title=学校では教えてくれない日本史の授業 天皇論|series=PHP文庫|date=2014-03-05|page=188-189|quote=これによって清盛は、「天皇の母方の祖父」という地位をも手にします。こうした立場を「外祖父」と言います。逆に清盛から見ると、安徳天皇は「外孫」ということになります。こうしたやり方、つまり自分の娘を天皇に嫁がせ、生まれた子供を皇位に即けて外祖父という立場でコントロールすることで権勢を強固なものとして行くというやり方は、実は藤原氏がやってきたことでした。}}</ref>。
 
== 天皇の外祖父 ==
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以降、藤原氏はしばしば同様に、天皇の外祖父など[[外戚]]として[[摂政]]や[[関白]]などの地位を占め、例えば[[藤原道長]]は[[後一条天皇]]の、また[[九条道家]]は[[四条天皇]]の外祖父として、それぞれ摂政となった。
 
[[平清盛]]も、娘である[[平徳子|徳子]]を[[高倉天皇]]の[[中宮]]とし、その間に生まれた言仁親王が生後間もなく立太子された。[[1180年]]、言仁親王は、[[太上天皇|上皇]]となって[[院政]]を布いた父から譲位され、満1歳4か月で即位して[[安徳天皇]]となったため、清盛も最晩年の1年弱の間は天皇の外祖父であった<ref name="izawa" />。
[[明仁|今上天皇]]の外祖父は、母である[[香淳皇后]]の父、[[久邇宮邦彦王]]である。また、[[皇太子徳仁親王]]の外祖父は、母である[[皇后美智子]]の父、[[正田英三郎]]である。
 
即位の時点で外祖父が健在であった最後の天皇は[[明治天皇]]であり、生母である[[中山慶子]]の父、[[中山忠能]]は[[1888年]]まで存命であった<ref>{{kotobank|中山忠能|美術人名辞典}}</ref>。[[明仁|今上天皇]]の外祖父は、母である[[香淳皇后]]の父、[[久邇宮邦彦王]]であるが、出生時には既に故人であった。また、[[皇太子徳仁親王]]の外祖父は、母である[[皇后美智子]]の父、[[正田英三郎]]であるが、既に故人である。
 
== 脚注 ==