「勝沼信友」の版間の差分

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『[[勝山記]](妙法寺記)』天文4年(1535年)8月22日記事によれば、信虎が甲斐南部の河内領万沢口において[[駿河国|駿河]]の[[今川氏輝]]と争った際に、今川氏支援のため郡内へ侵攻した[[相模国|相模]]の[[北条氏綱]]との[[山中湖]]畔における合戦で討死した([[山中の戦い]])。
 
死後、家督は嫡子の信元が継いでいるが、勝沼には親類衆の[[今井氏|府中今井氏]]の[[今井信甫]]が入部して勝沼今井氏となり、勝沼氏は信友の家系には相続されなかった<ref name="柴辻p33"> 柴辻俊六 著『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.33</ref>。また、信友の娘とされる[[理慶尼]]は信友の娘ではなく、勝沼今井氏の出自で今井信甫の母とされており(『[[引導院日牌帳]]』)、信友の子女に関しては勝沼今井氏との混同の可能性も指摘されている<ref name="柴辻p33"/>。
 
『[[甲陽軍鑑]]』によれば、永禄3年([[1560年]])11月には「かつぬま五郎殿」が越後国の[[上杉謙信]]の調略に応じて謀反を起こし成敗された事件が記されているが、『甲陽軍鑑』では「かつぬま五郎殿」を勝沼今井氏の存在を想定せずに勝沼信元のこととしているが、永禄3年以降に勝沼今井氏の消息が見られないことからも、今井信甫の子・[[今井信良|信良]](安芸守)を指しているとする説もある。