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'''大内 義興'''(おおうち よしおき)は、[[室町時代]]後期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけての[[周防国|周防]]([[山口県|山口]])の[[戦国大名]]。周防の[[在庁官人]]・[[大内氏]]の第3015代当主。
 
父は周防守護で大内氏の第2914代当主・[[大内政弘]]。弟(一説に庶兄とも)に[[大内高弘]]([[大内隆弘|隆弘]]とも、初めは出家して大護院尊光)がいる{{Efn|『[[大乗院日記目録]]』文明8年12月20日条に「大内息新助今日京著畢」と大内政弘の息子の上洛の記事があるが、義興が誕生する以前の記事である。また、同日条に出てくる「新助」=「新介」の名乗りは、義興の幼名「亀童丸」もともに大内氏の嫡子に与えられる名乗りであり同氏の後継者が2人存在したことになってしまう。このため、義興には誕生前に死去あるいは廃嫡となった兄がいた可能性がある。また、大内高弘がその廃嫡された兄であった可能性も否定できない{{sfn|藤井崇|2013|p=307}}{{sfn|藤井崇|2014|pp=32–33}}。}}。正室は長門守護代・[[内藤弘矩]]の娘。子に[[大内義隆|義隆]](第3116代当主)、娘([[大友義鑑]]正室、後に[[大友義鎮|大友義鎮(宗麟)]]や[[大内義長]](第3217代当主)がこの間に生まれる)。[[室町幕府]]の[[管領代]]となって[[征夷大将軍|将軍]]の後見人となり、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ねた。
 
== 生涯 ==
=== 家督相続と内訌 ===
文明9年(1477年)、大内氏の第2914代当主・大内政弘の子として生まれる{{Efn|常楽寺文書「大内殿御先祖次第」より。なお父・政弘は応仁元年(1467年)以来、応仁の乱の西軍方として京都に出陣して文明9年末まで領国には帰っておらず、日付が正しければ義興は大内氏の本拠地である山口ではなく京都で生まれたことになる。}}。[[幼名]]は'''亀童丸'''<ref name=大内系図/><ref name=氷上山上宮参詣目録 />。[[長享]]2年[[1月30日 (旧暦)|1月30日]]([[1488年]][[3月13日]])に京都にて[[元服]]し、将軍[[足利義尚]]から「義」の字を許されて「'''義興'''」の名を与えられた<ref group=注 name=蔭涼軒日録長享2年1月30日 />{{sfn|藤井崇|2014|p=35}}。
 
[[明応]]元年([[1492年]])、父の命令で[[六角高頼]]討伐([[長享・延徳の乱]])に参戦する{{sfn|福尾猛市郎|1989|p=36}}。ところが、その最中の明応2年([[1493年]])に[[管領]][[細川政元]]が将軍[[足利義材]]を幽閉する[[明応の政変]]が発生する。義興は兵を摂津国の[[兵庫津|兵庫]]に引き上げたまま事態の推移を見守っただけであった。この政変に関連して、細川政元派の武田元信の配下によって当時京都に滞在していた義興の妹が誘拐される事件(『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月1日条)や父・政弘が義興の側近に切腹を命じる事件(『大乗院寺社雑事記』明応2年8月4日条)などが発生しており、細川政元らが大内政弘が足利義材を支援することを恐れて人質を取って若年の義興に圧力をかけ、その対応の拙さが本国の政弘の怒りを買ったと推測される{{sfn|藤井崇|2014|pp=36&ndash;43}}。だが、一方でこの出兵が京都生まれの義興と本国の被官との関係構築に大いに寄与する事になり、家督継承後の義興の支配に資することになった{{sfn|藤井崇|2014|p=49}}。
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*[[龍福寺 (山口市)]]
*[[畿内・近国の戦国時代]]
 
 
==外部リンク==