「大内義興」の版間の差分
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'''大内 義興'''(おおうち よしおき)は、[[室町時代]]後期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけての[[周防国|周防]]([[山口県|山口]])の[[戦国大名]]。周防の[[在庁官人]]・[[大内氏]]の第
父は周防守護で大内氏の第
== 生涯 ==
=== 家督相続と内訌 ===
文明9年(1477年)、大内氏の第
[[明応]]元年([[1492年]])、父の命令で[[六角高頼]]討伐([[長享・延徳の乱]])に参戦する{{sfn|福尾猛市郎|1989|p=36}}。ところが、その最中の明応2年([[1493年]])に[[管領]][[細川政元]]が将軍[[足利義材]]を幽閉する[[明応の政変]]が発生する。義興は兵を摂津国の[[兵庫津|兵庫]]に引き上げたまま事態の推移を見守っただけであった。この政変に関連して、細川政元派の武田元信の配下によって当時京都に滞在していた義興の妹が誘拐される事件(『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月1日条)や父・政弘が義興の側近に切腹を命じる事件(『大乗院寺社雑事記』明応2年8月4日条)などが発生しており、細川政元らが大内政弘が足利義材を支援することを恐れて人質を取って若年の義興に圧力をかけ、その対応の拙さが本国の政弘の怒りを買ったと推測される{{sfn|藤井崇|2014|pp=36–43}}。だが、一方でこの出兵が京都生まれの義興と本国の被官との関係構築に大いに寄与する事になり、家督継承後の義興の支配に資することになった{{sfn|藤井崇|2014|p=49}}。
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*[[龍福寺 (山口市)]]
*[[畿内・近国の戦国時代]]
==外部リンク==
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