「狩野安信」の版間の差分

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そうした探幽の[[いじめ]]とも取れる指導を受ける中で、安信は画技の研鑽に努めた。明暦元年([[1655年]])[[普門寺 (高槻市)|普門寺]]にいる[[隠元隆琦]]を訪ね、隠元から法を受け、同寺の障壁画を描く。探幽ら当時の狩野派の絵に、隠元ら黄檗僧が着讃した作品は非常に多いが、その中でも安信には[[黄檗美術]]の影響を受けたと思われる作品がある。寛文2年([[1662年]])には[[法眼]]に叙された。また、探幽の養子であり、探幽に実子が生まれてからは疎んじられた[[狩野益信]]や甥の[[狩野常信]]に娘を嫁がせ、狩野家の結束を固める策をとっている。延宝2年([[1674年]])の内裏造営では、筆頭絵師にのみ描くのを許された[[賢聖障子]]を描き、62歳にしてようやく名実ともに狩野家筆頭の地位を得た。安信は晩年になっても、[[武者絵]]を描くためにわざわざ[[山鹿素行]]を訪れ、武者装束や武器などの[[有職故実]]の教えを受け<ref>『山鹿素行日記』延宝7年([[1679年]])11月14日条</ref>、朝鮮進物屏風の制作にあたっても素行を訪ねて様々な質問をしたという逸話が残っている<ref>同書、[[天和 (日本)|天和]]2年([[1682年]])4月11日・5月26日条</ref>。しかし、延宝6年([[1678年]])に息子の[[狩野時信|時信]]に先立たれてしまう。そのため、時信の子・[[狩野主信|永叔主信]]を跡取りとし、後事を有力な弟子・昌運に任せて亡くなった。菩提寺は[[本門寺]]。位牌は妻や子、舅の狩野長信らと合わせられている。
 
弟子は、[[英一蝶]]や[[狩野昌運]]、[[狩野宗信]]、[[松江藩]]に仕えた狩野(太田)永雲(稠信(しげのぶ))、狩野清真など。また『古画備考』には「門人」とは別に、「門葉」という項目がある。これは、画を生業としてではなく趣味として楽しむために学んだ門跡や大名のことで、[[徳川光圀]]や[[黒田綱政]]、[[光子内親王]]、[[森川許六]]ら19名が記されている。
 
== 画論『画道要訣』 ==