「航空自衛隊の歴史」の版間の差分

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m 臨時救難航空隊、救難隊にリンク
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1次防の下で航空自衛隊は拡張する。1957年8月1日、[[府中基地]]にて'''[[航空総隊|航空集団]]'''(後の'''航空総隊''')が編成される。1957年9月2日に[[千歳基地|千歳]]、松島、矢の目、宇都宮、入間川、[[浜松基地|浜松]]、[[小月]]、美穂、[[防府市|防府]]、[[築城基地|築城]]、[[福岡空港|板付]]に管制分遣隊と気象分遣隊が新編され、続く10月21日に[[三沢飛行場|三沢]]にて、12月20日に[[新田原基地|新田原]]、翌1958年1月16日に管制分遣隊が新編、8月1日に[[静浜基地|静浜]]、[[小牧基地|小牧]]および[[木更津市|木更津]]に管制分遣隊が新編される。1959年6月1日に矢の目を除く全管制分遣隊が管制隊に改編され、アメリカ空軍の管理下にあった日本全国を網羅する航空管制態勢が順次引き渡されている。1959年3月末までに'''航空総隊'''、[[北部航空方面隊]](三沢)、[[中部航空方面隊]](入間)、[[西部航空方面隊|西部航空指令所]](春日)の主要部隊を始めとして、第1から第4までの航空団、[[輸送航空団]]、航空保安管制気象群、[[航空救難団|救難航空隊]]、[[飛行開発実験団|実験航空隊]]、[[航空自衛隊第5術科学校|管制教育団]]など現在の航空自衛隊の基盤となる部隊・機関が新編される。
 
この当時、最初の8年間だけで70名の殉職者を出しており、大中規模の航空事故件数も昭和31年度で33件、昭和32年度は47件に及んでおり<ref>航空自衛隊50年史資料編 P255</ref>、1957年9月にこの状況を重く見た第3代航空幕僚長[[源田実]]空将は飛行安全検閲を実施し、11月には航空幕僚監部内に監察官が新設される。これ以降、安全に関わる分野に多くの予算が注ぎ込まれ、物心両面において不備対策が推進され航空事故件数は減少していった。そして1958年3月に[[ヘリコプター]]を装備する[[救難飛行|臨時救難航空隊]]が新編された。
 
1959年6月1日に[[航空教育集団|飛行教育集団]]が新編され、第11から第17までの通し番号付き飛行教育団と第1航空団および[[第4航空団]]が集約され、飛行教育部隊については一本化される。同年6月、[[岐阜基地]]に置かれていた整備学校分校が[[航空自衛隊第3術科学校]]に、9月に整備学校が[[航空自衛隊第1術科学校]]に、通信学校が[[航空自衛隊第2術科学校]]にそれぞれ改編される。