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[[1970年]]の[[ケベック解放戦線]]が[[ケベック独立運動|ケベック独立]]を要求しイギリス貿易省のクロス長官を誘拐、ケベック州の労働大臣[[ピエール・ラポルテ]]を殺害した「[[オクトーバー・クライシス]](十月危機)」の際、[[戒厳令]]を敷き強硬手段で解決にあたったことは今でも賛否両論となっているが、トルドーがケベック州生まれの[[フランス系カナダ人]]でありながらケベック独立に反対し、内政の運営がきわめて難しい多文化国家であるカナダ社会において、カナダをひとつの国としてまとめようと強力なリーダーシップをとっていたことの一例である。[[1971年]]には「多文化主義宣言」を行い、[[公用語]]を英仏二カ国語とするなど現在の多文化国家カナダの原型を作り上げた。また、経済政策では[[ペトロ・カナダ]]を設立して石油産業の国有化を図った。[[1982年]]には[[1982年憲法|新憲法]]が制定され、[[イギリス]]との関係を明確にした。その後、さらに対米依存主義脱却を目指した。
 
なお、[[ソビエト連邦|ソ連]]の駐カナダ大使として任してきた[[アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ヤコレフ (政治家)|アレクサンドル・ヤコブレフ]]とは深い交友関係を築き、トルドーはヤコブレフにちなんで自分の次男に[[アレクサンドル・トルドー|アレクサンドル]] (Alexandre) と名付け、さらに[[ロシア語]]風の[[サーシャ]]という[[人名の短縮形|愛称]]で呼ぶほどだった。
 
[[2004年]]にモントリオールの空港がトルドーの名にちなみ[[モントリオール・ピエール・エリオット・トルドー国際空港|モントリオール・トルドー国際空港]]と改名した。