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[[ファイル:Hugo Eckener.jpg|thumb|right|フーゴー・エッケナー 1924年]]
[[File:Bundesarchiv Bild 102-00645, Probefahrt des Zeppelin-Luftschiffes Z.R. III.jpg|thumb|1924年にテスト中のLZ 126([[ロサンゼルス (飛行船)|USS Los Angeles]])(x印の窓内がエッケナー)]]
'''フーゴー・エッケナー'''(''Hugo Eckener'' 、[[1868年]][[8月10日]] – [[1954年]][[8月14日]])は戦間期のツェペリン飛行船会社の[[マネージャー]]であり、[[LZ 127 (飛行船)|グラーフ・ツェッペリン号]]の歴史的な飛行の多くの指揮をとった。その中には飛行船による世界一周飛行が含まれ、歴史上、最も成功した[[飛行船]]の指揮者となった。また多くの飛行船の製造の責任者でもあった。[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]に反対する立場をとり、ナチスの[[ブラックリスト]]に載り、後にツェッペリン飛行船会社での実権を失った。
 
== 経歴 ==
[[フレンスブルク]]に生まれた。父親は葉巻会社の経営者で、弟に画家となった、[[アレクサンダー・エッケナー]]がいる。若い時代に[[バルト海]]で[[セイリング]]を行い、気象の知識を得たことは後の飛行船の指揮に役立つこととなった。[[ライプツィヒ大学]]で心理学を学んだあと、新聞「フランクフルター・ツァイトゥング」紙の通信員となった。ツェッペリンの飛行船、LZ1とLZ2の初飛行の記事を担当することになったエッケナーは、はじめ、飛行船の優位性に対して批判的であったが、[[フェルディナント・フォン・ツェッペリン]]の情熱に打たれてパートタイムの宣伝担当になった。後に飛行船に興味を持つようになり、フルタイムの社員となった。
 
飛行についての才能を示し、飛行船の船長となった。[[1911年]][[5月16日]]のドイッチェラントIIと命名されたLZ8の初飛行では強風のなかで離陸しようとして、船体を格納庫の壁に衝突させ大きな損傷を与えてしまったが、飛行船乗りとして成功した。
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* [http://www.airships.net/hugo-eckener Airships.net: Biography of Hugo Eckener]
 
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[[Category:ドイツの航空機技術者]]