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1955年の[[社会党再統一]]にあたって、統一社会党の委員長となった鈴木は、[[河上丈太郎]]派と協力しながら穏健な路線を追求し、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]に代わる政権政党へと日本社会党を脱皮させようと努力した。
 
1956年には、[[最高裁判所機構改革]]に並行して、[[違憲裁判手続法]]の法案を衆議院法務委員会へ提出した<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/024/0488/02403120488016a.html 1956年3月12日衆議院議事録第16号] - 国会議事録検索システム。[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/031/0514/03103120514009a.html なお、1959年3月12日参議院議事録第9号]によれば、当時の首相[[岸信介]]は、「単純な違憲を理由として出訴できるかどうか、その手続問題については議論があるようであり、改正されるべき節があると思われる」という旨を答弁しているが、法案は成立に至らなかった</ref>。
 
しかし、1958年の[[第28回衆議院議員総選挙|総選挙]]での伸び悩み、翌1959年の[[第5回参議院議員通常選挙|参議院選挙]]での敗北を期に、左右両派の対立が再び党内で高まり、ついに1960年には西尾末広らが脱党して、民主社会党(のちの[[民社党]])を結成した。その責任をとり、委員長を辞任した。