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[[ファイル:Kenpohapu-chikanobu.jpg|300px|thumb|憲法発布略図<br>1889年(明治22年)、[[楊洲周延]]画]]
[[ファイル:Adachi Ginkō (1889) View of the Issuance of the State Constitution in the State Chamber of the New Imperial Palace.jpg|300px|right|thumb|新皇居於テ正殿憲法発布式之図<br>1889年(明治22年)、[[安達吟光]]画]]
'''大日本帝国憲法'''(だいにほんていこくけんぽう、だいにっぽんていこくけんぽう、[[旧字体]]:大日本帝國憲法)は、[[1889年]]([[明治]]22年)[[2月11日]]に[[公布]]、[[1890年]](明治23年)[[11月29日]]に施行された、近代[[立憲主義]]に基づく[[日本]]の[[憲法]] <ref group="注釈">大日本帝国憲法には、表題に「[[大日本帝国]]」が使用されているが、[[詔勅]]では「大日本憲法」と称しており、正式な[[国号]]と定められたものではない。「大日本帝国」が正式な国号と定められた[[1936年]](昭和11年)まで、他に「日本国」「日本」等の名称も使用された。</ref>
 
</ref>。'''明治憲法'''(めいじけんぽう)、あるいは単に'''帝国憲法'''(ていこくけんぽう)と呼ばれることも多い。現行の[[日本国憲法]]との対比で'''旧憲法'''(きゅうけんぽう)とも呼ばれる。
 
短期間で停止された[[オスマン帝国憲法]]を除けば実質上のアジア初の近代憲法である。[[1947年]]([[昭和]]22年)[[5月3日]]の日本国憲法施行まで半世紀以上の間<ref group="注釈">正確には56年5か月4日(20608日)</ref>、一度も改正されることはなかった。[[1947年]](昭和22年)[[5月2日]]まで存続し、[[1946年]](昭和21年)[[11月3日]]に[[大日本帝国憲法第73条|第73条]]の憲法改正手続による公布を経て、翌[[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]に[[日本国憲法]]が施行された。
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私擬憲法の内容についてはさまざまな研究がある。政府による言論と政治活動の弾圧を背景として、[[人権]]に関する規定が詳細なことはおおむね共通する。天皇の地位に関してはいわれるほど差があるものではなかったとする意見がある。「自由民権家は皆[[明治維新]]を闘った[[尊皇]]家で、天皇の存在に国民の権利、利益の究極の擁護者の地位を仰ぎみていた」とするものである。例えば、草の根の人権憲法として名高い[[千葉卓三郎]]らの憲法草案(いわゆる[[五日市憲法]])でも、天皇による立法行政司法の総轄や軍の統帥権、天皇の神聖不可侵を定めている点などは大日本帝国憲法と同様である。
 
=== 制定国憲起草への動き ===
[[1876年]](明治9年)[[9月6日]]、[[明治天皇]]は「元老院議長[[有栖川宮熾仁親王]]へ国憲起草を命ずるの[[勅語]]」を発した。この勅語では、「朕、ここにわが建国の体に基づき、広く海外各国を成法を斟酌して、もって国憲を定めんとす。なんじら、これが草案を起創し、もってきこしめせよ。朕、まさにこれを撰ばんとす」として、各国憲法を研究して憲法草案を起草せよと命じている。元老院はこの諮問に応え[[憲法取調局]]を設置した。同時に治罪法([[刑事訴訟法]])や[[民法 (日本)#沿革|民法]]の構築作業が、[[明法寮]]や[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード|ボアソナード]]らを中心に、フランス語の[[大陸法]]を基盤に置いて展開された。

これに対し、英語・ドイツ語圏の側は、1877年に[[日本赤十字社]]前身の博愛社を設立し、また駐ドイツ帝国公使[[青木周蔵]]は1878年10月、ドイツ人[[ヘルマン・ロエスレル]](ロェスラー、Karl Friedrich Hermann Roesler)を日本に送り込むという動きを見せた。

[[1880年]](明治13年)、元老院は「'''日本国国憲按'''」を成案として提出し、また、[[大蔵卿]]・[[大隈重信]]も「憲法意見」を提出した。このうち、日本国国憲按は皇帝の国憲遵守の誓約や議会の強い権限を定めるなど[[ベルギー]]憲法([[1831年]])やドイツ統一前の[[プロイセン王国]]憲法([[1850年]])の影響を強くうけていたため、[[岩倉具視]]・[[伊藤博文]]らの反対にあい、大隈の意見ともども採択されるに至らなかった。
 
[[ファイル:Imperial rescript of the Diet establishment.jpg|thumb|right|300px|国会開設の勅諭]]
岩倉具視1881年(明治14年)8月31日、伊藤博文を中心とする勢力は[[明治十四年の政変]]によって大隈重信を罷免し、その直後に[[御前会議]]を開いて国会開設を決定した。その結果、9月18日には主だった官僚や政治家をメンバーとする国策機関[[1881年独逸学協会]](明治14年)(Verein für die deutschen Wissenschaften, Society for German Sciences)を設立し、[[10月12日ドイツ帝国]]式立憲主義推進の立場を強めた。この協会は法律家よう「'''らずドイツ人造船技術者[[国会開設の詔ルドルフ・レーマン_(機械工学技師)|国会開設の勅諭レーマン]]'''」が発されなども参加していた。
 
その結果、10月12日に次のような「'''[[国会開設の詔|国会開設の勅諭]]'''」が発された。この勅諭では、第一に、[[1890年]](明治23年)の国会([[議会]])開設を約束し、第二に、その組織や権限は政府に決めさせること(欽定憲法)を示し、第三に、これ以上の議論を止める政治休戦を説き、第四に内乱を企てる者は処罰すると警告している。この勅諭を発することにより、政府ドイツ勢力は政局の主導権を取り戻し<ref>当時の[[イギリス王室]]とドイツ帝国の貴族は同族氏族関係にあった。</ref>
 
=== 制定までの経緯 ===
[[1882年]](明治15年)3月、「在廷臣僚」として、独逸学協会名誉会員であり[[参議]][[伊藤博文]]らは「在廷臣僚」として、政府の命をうけて[[ヨーロッパ]]に渡り、[[ドイツ]]帝国[[立憲主義、[[ビスマルク憲法]]の理論と実際について調査を始めた。伊藤は、[[ベルリン大学]]の[[ルドルフ・フォン・グナイスト]]、[[ウィーン大学]]の[[ロレンツ・フォン・シュタイン]]の両学者から、「[[憲法]]はその国の[[歴史]]・[[伝統]]・[[文化]]に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強せよ」という助言をうけた。その結果、[[プロセンツ帝国]] ([[プロセン]])の憲法体制が最も日本に適すると信ずるに至った(ただし、伊藤はプロイセン式を過度に評価する[[井上毅]]をたしなめるなど、そのままの移入を考慮していたわけではない。また[[明治維新]]とドイツの[[トイトブルク森の戦い|独立戦争]]は性質も異なる)。伊藤自身が本国に送った手紙では、グナイストは極右で付き合いきれないが、シュタインは自分に合った人物だと評している。翌[[1883年]](明治16年)に伊藤らは帰国し、井上毅に憲法草案の起草を命じ、憲法取調局(翌年、制度取調局に改称)を設置するなど憲法制定と議会開設の準備を進めた。
 
[[1885年]](明治18年)には[[太政官|太政官制]]を廃止して'''[[内閣 (日本)|内閣制度]]'''が創設され、[[伊藤博文]]が初代[[内閣総理大臣]](首相)となり、同じく独逸学協会の[[司法大臣]][[山田顕義]]も再任され、[[ゲオルグ・ミハエリス]]や[[パウル・マイエット]]も来日した。

1886年には[[大審院]]長[[玉乃世履]]の在職中の自殺事件が起きるが、井上は、政府の法律顧問であとなったドイツ人・[[ロエスレル]](ロェスラー、Karl Friedrich Hermann Roesler)や[[アルバート・モッセ]](Albert(Albert Mosse)Mosse)などの助言を得て起草作業を行い、[[1887年]](明治20年)5月に憲法草案を書き上げた。

この草案を元に、夏島([[神奈川県]][[横須賀市]])にある伊藤の別荘で、伊藤、井上、[[伊東巳代治]]、[[金子堅太郎]]らが検討を重ね、夏島草案をまとめた。当初は東京で編集作業を行っていたが、伊藤が首相であったことからその業務に時間を割くことになってしまいスムーズな編集作業が出来なくなったことから、[[金沢区|相州金沢]](現:[[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]])の東屋旅館に移り作業を継続する。しかし、メンバーが[[横浜市|横浜]]へ外出している合間に書類を入れたカバンが盗まれる事件が発生<ref group="注釈">民権派の犯行も疑われたが、見つかったカバンからは金品のみなくなっていたことから[[空き巣]]であったとされる。</ref>。そのため最終的には夏島に移っての作業になった。その後、夏島草案に修正が加えられ、[[1888年]](明治21年)4月に成案をまとめた。その直後、伊藤は天皇の諮問機関として[[枢密院 (日本)|枢密院]]を設置し、自ら議長となってこの憲法草案の審議を行った。枢密院での審議は[[1889年]](明治22年)1月に結了した。ロエスレルらの提出した「日本帝国憲法草案」のほとんどが[[司法大臣]][[山田顕義]]の下で受け入れられた。
 
[[1889年]](明治22年)[[2月11日]]、[[明治天皇]]より「'''大日本憲法発布の[[詔勅]]'''」<ref>柴田勇之助 編、「大日本憲法發布の詔勅」『明治詔勅全集』、p26-27、1907年、皇道館事務所。[{{NDLDC|759508/34}}]</ref>が出されるとともに'''大日本帝国憲法'''が発布され、国民に公表された。この憲法は[[天皇]]が[[黒田清隆]]首相に手渡すという[[欽定憲法]]の形で発布され、日本は[[東アジア]]で初めて[[近代憲法]]を有する[[立憲君主制|立憲君主国家]]となった。また、同時に、皇室の家法である[[皇室典範]]も定められた。また、[[議院法]]、貴族院令、衆議院議員選挙法、[[会計法]]なども同時に定められた。大日本帝国憲法は[[第1回衆議院議員総選挙]]実施後の第1回[[帝国議会]]が開会された[[1890年]](明治23年)[[11月29日]]に施行された。
 
国民は憲法の内容が発表される前から憲法発布に沸き立ち、至る所に奉祝門やイルミネーションが飾られ、提灯行列も催された。当時の自由民権家や新聞各紙も同様に大日本帝国憲法を高く評価し、憲法発布を祝った<ref group="注釈">制定の過程において新聞紙上及び民権運動家から様々な批判があったにもかかわらず、発布に際しては国を挙げた奉祝ムードにあったことを、当時、[[東京大学]]医学部で教鞭を執っていた[[ベルツ]]が記している(『ベルツの日記』)。</ref>。自由民権家の[[高田早苗]]は「聞きしに優る良憲法」と高く評価した。また

他方、[[福澤諭吉]]は主宰する『[[時事新報]]』の紙上で、「国乱」によらない憲法の発布と国会開設を驚き、好意を持って受け止めつつ、「そもそも西洋諸国に行はるる国会の起源またはその沿革を尋ぬるに、政府と人民相対し、人民の知力ようやく増進して君上の圧制を厭ひ、またこれに抵抗すべき実力を生じ、いやしくも政府をして民心を得さる限りは内治外交ともに意のごとくならざるより、やむを得ずして次第次第に政権を分与したることなれども、今の日本にはかかる人民あることなし」として、人民の精神の自立を伴わない憲法発布や政治参加に不安を抱いている。[[中江兆民]]もまた、「我々に授けられた憲法が果たしてどんなものか。玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。国民の愚かなるにして狂なる。何ぞ斯くの如きなるや」と書生の[[幸徳秋水]]に溜息をついている。
 
=== 制定後の出来事 ===
1880年当初の憲法草案と同時期に成立した1880年治罪法は、帝国憲法施行の1890年に刑事訴訟法と置き換えられて消滅した。また[[:s:再閲民法草案|ボアソナード民法]]は、帝国憲法と同時に一旦公布はされたものの、[[民法典論争]]を経て施行されないまま廃止された。ここで人権保護的な法規は非常に減じたことになる。
 
[[1891年]](明治24年)、日本を訪問中の[[ロシア]]皇太子・ニコライ(のちの[[ニコライ2世]])が、[[滋賀県]][[大津市]]で警備中の巡査・[[津田三蔵]]に突然斬りかかられ負傷した。いわゆる'''[[大津事件]]'''である。この件で、時の[[内閣]]は対露関係の悪化をおそれ、[[不敬罪|大逆罪(皇族に対し危害を加える罪)]]の適用と、津田に対する[[死刑]]を求め、[[司法]]に圧力をかけた。しかし、[[大審院]]長の[[児島惟謙]]は、この件に同罪を適用せず、法律の規定通り普通人に対する謀殺未遂罪を適用するよう、担当裁判官に指示した。かくして、津田を無期徒刑(無期[[懲役]])とする判決が下された。この一件によって、日本が立憲[[国家]]・法治国家として[[法治主義]]と司法権の独立を確立させたことを世に知らしめた。もっとも、本件は当時の司法権の独立の危うさを語っている。また、大審院長が裁判に介入したことから、個々の裁判官の独立は守られていないことに注意を要する。
 
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この政府案を元に国民の間で広く議論が行われ、4月10日には[[第22回衆議院議員総選挙]]が行われた(もっとも、国民の最大の関心は新憲法より生活の安定にあった)。政府は、選挙が終了した4月17日に、要綱を条文化した「'''憲法改正草案'''」を公表した。4月22日から枢密院において憲法改正案が審査が開始され、6月8日に可決された。6月20日、政府は、[[大日本帝国憲法73条]]の憲法改正手続に基づき、憲法改正案を衆議院に提出した。6月25日から衆議院において審議が開始され、若干の修正が加えられた後、8月24日に可決された。続けて、8月26日から貴族院において審議が開始され、ここでも若干の修正が加えられた後、10月6日に可決された。翌7日、衆議院は貴族院の修正に同意し、帝国議会での審議は結了した。憲法改正案はふたたび枢密院にはかられ、10月29日に可決された。天皇の裁可を経て、11月3日、大日本帝国憲法は改正され'''[[日本国憲法]]'''として公布され、翌[[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]に施行された。
 
== 大日本帝国憲法の問題点 ==
===内閣と総理大臣についての規定の欠落===
大日本帝国憲法には、「内閣」「内閣総理大臣(首相)」の規定がない。これは、伊藤博文がグナイストの指導を受け入れ、プロイセン憲法([[ビスマルク憲法]]、1871年)を下敷きにして新憲法を作ったからに他ならない。グナイストは伊藤に対して、「イギリスのような責任内閣制度を採用すべきではない。なぜなら、いつでも大臣の首を切れるような首相を作ると国王の権力が低下するからである。あくまでも行政権は国王や皇帝の権利であって、それを首相に譲ってはいけない」と助言した。この意見を採用した結果、戦前の日本は憲法上「内閣も首相も存在しない国」になったが、のちにこの欠陥に気づいた軍部が「陸海軍は天皇に直属する」という規定を盾に政府を無視して暴走するという災いをもたらすことになった。こうした欠陥が「統帥権干犯問題」の本質である。昭和に入るまでは明治維新の功労者である元勲がいたためそのような問題が起きなかったが、元勲が相次いで死去するとこの問題が起きてきた。そしてさらに悪いことに、大日本帝国憲法を「不磨の大典」として条文の改正を不可能にする考え方があったことである。これによって昭和の悲劇が決定的になったと言える<ref>{{Cite book|和書|author=渡部昇一|authorlink=渡部昇一|date=2010-05-21|title=世界史に躍り出た日本|volume=第5巻 明治編|series=渡部昇一「日本の歴史」|publisher=[[ワック]]|isbn=978-4-89831-144-8|url=http://web-wac.co.jp/book/tankoubon/530}}</ref>
 
こうした欠陥が「統帥権干犯問題」の本質である。昭和に入るまでは明治維新の功労者である元勲がいたためそのような問題が起きなかったが、元勲が相次いで死去するとこの問題が起きてきた。そしてさらに悪いことに、大日本帝国憲法を「不磨の大典」として条文の改正を不可能にする考え方があったことである。これによって昭和の悲劇が決定的になったと言える<ref>{{Cite book|和書|author=渡部昇一|authorlink=渡部昇一|date=2010-05-21|title=世界史に躍り出た日本|volume=第5巻 明治編|series=渡部昇一「日本の歴史」|publisher=[[ワック]]|isbn=978-4-89831-144-8|url=http://web-wac.co.jp/book/tankoubon/530}}</ref>。
 
ビスマルク憲法のほうは大日本帝国憲法成立後の改正によって大臣解任権が議会に与えられたが、日本においては現在も、事実上の大臣解任権を持つ[[議会]](国会)や、独立の大臣等罷免審査の機関([[憲法裁判所]])が存在しない。
 
{{see also|立憲主義#外見的立憲主義}}
 
===議員資格審査の秘密性===
 
[[伊藤博文]]は[[間接民主主義|議会制民主主義]]に付随する[[議院法]]については英国人顧問[[フランシス・テイラー・ピゴット]]の助言を求め、ピゴットは「貴族院議院の資格争訟判決には理由を付すよう」回答している。しかし、伊藤らはその助言内容に反し、憲法の公布から施行までの間の1890年10月11日、貴族院議員資格争訟裁判の審査内容を秘密化する法律「貴族院議員資格及選挙争訟判決規則」を設置した<ref>[[#ピゴット]]及び[[#1890年勅令221]]。</ref>。
 
=== 憲法改正有限界説との矛盾 ===
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なお、各国の憲法の中には「憲法改正の限界」を憲法に明記しているものも存在する<!--ドイツ基本法の戦う民主主義など-->。
 
=== 現行法制度との関係 ===
大日本帝国憲法は、[[大日本帝国憲法第73条|第73条]]に定める改正手続を経て全面改正され、日本国憲法となる。日本国憲法は[[1946年]](昭和21年)11月3日に公布され、[[1947年]](昭和22年)5月3日に施行された。
 
大日本帝国憲法の下で成立した法令は、[[日本国憲法第98条|日本国憲法98条1項]]により、「その条規に反する」ものについて同時に失効している。また、同条の反対解釈により、日本国憲法の条規に反しない法令は、日本国憲法の施行日以降も効力を有する。効力を有する場合、法律は法律として扱われ、[[閣令]]は[[内閣府令]]として、[[省令]]は省令として扱われる。勅令は、法律事項を内容とするものは暫定的効力を認めた後失効させ、法律事項以外を内容とするものは[[政令]]として扱われた。[[物価統制令]]などのいわゆる[[ポツダム命令|ポツダム勅令]](ポツダム命令)は、法律または政令として扱われる。
 
== 特徴 ==
[[ファイル:Politics Under Meiji Constitution 02.png|thumb|400px|大日本帝国憲法下の統治機構図。カッコで括った機関は、憲法に規定がない。]]
この憲法は[[立憲主義]]の要素と[[国体]]の要素をあわせもつ[[欽定憲法]]であり、立憲主義によって議会制度が定められ、国体によって議会の権限が制限された。<!--憲法改正-->日本国憲法成立後は、憲法学者らによって外見的立憲主義、[[王権神授説]]的と評された。
 
=== 構成 ===
大日本帝国憲法は7章76条からなる。構成は以下の通り。初期のビスマルク憲法と同様に内閣及び首相に関する規程がない(なおビスマルク憲法のほうは、後になって議会に大臣解任権が与えられた)。なお、既存項目が存在する条文のみ列挙した。全文は[[ウィキソース]]の[[s:大日本帝國憲法|大日本帝國憲法]]を参照のこと。
* 第1章 天皇
** [[大日本帝国憲法第1条|第1条]] 天皇主権
** [[大日本帝国憲法第2条|第2条]] 皇位継承
** [[大日本帝国憲法第4条|第4条]] 統治大権
** [[大日本帝国憲法第10条|第10条]] 官制大権及び任免大権
** [[大日本帝国憲法第11条|第11条]] [[統帥権|統帥大権]]
** [[大日本帝国憲法第12条|第12条]] 編制大権
** [[大日本帝国憲法第13条|第13条]] 外交大権
** [[大日本帝国憲法第14条|第14条]] 戒厳大権
* 第2章 臣民権利義務
** [[大日本帝国憲法第19条|第19条]] 公務への志願の自由
** [[大日本帝国憲法第20条|第20条]] 兵役の義務
** [[大日本帝国憲法第22条|第22条]] 居住・移転の自由
** [[大日本帝国憲法第29条|第29条]] 言論・出版・集会・結社の自由
** [[大日本帝国憲法第31条|第31条]] 非常大権
* 第3章 帝国議会
** [[大日本帝国憲法第34条|第34条]] 貴族院
* 第4章 国務大臣及枢密顧問
* 第5章 司法
* 第6章 会計
* 第7章 補則
** [[大日本帝国憲法第73条|第73条]] 憲法改正
 
=== 立憲主義の要素 ===
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そしてこの、権力が割拠し、[[意思決定]]中枢を欠くという問題を解決するために、権力の統合を進めようとする動きがあった。[[政党内閣制]]はその試みのうちの有力なものである。しかし、そういった動きに対しては、天皇主権を否定し、「幕府的存在」を作ることになるとの反発などもあり(例:[[内閣官制]]における大宰相主義の否定、[[大政翼賛会]]違憲論など)、ついに解消されることはなかった。
 
== 構成 ==
大日本帝国憲法は7章76条からなる。構成は以下の通り。なお、既存項目が存在する条文のみ列挙した。全文は[[ウィキソース]]の[[s:大日本帝國憲法|大日本帝國憲法]]を参照のこと。
* 第1章 天皇
** [[大日本帝国憲法第1条|第1条]] 天皇主権
** [[大日本帝国憲法第2条|第2条]] 皇位継承
** [[大日本帝国憲法第4条|第4条]] 統治大権
** [[大日本帝国憲法第10条|第10条]] 官制大権及び任免大権
** [[大日本帝国憲法第11条|第11条]] [[統帥権|統帥大権]]
** [[大日本帝国憲法第12条|第12条]] 編制大権
** [[大日本帝国憲法第13条|第13条]] 外交大権
** [[大日本帝国憲法第14条|第14条]] 戒厳大権
* 第2章 臣民権利義務
** [[大日本帝国憲法第19条|第19条]] 公務への志願の自由
** [[大日本帝国憲法第20条|第20条]] 兵役の義務
** [[大日本帝国憲法第22条|第22条]] 居住・移転の自由
** [[大日本帝国憲法第29条|第29条]] 言論・出版・集会・結社の自由
** [[大日本帝国憲法第31条|第31条]] 非常大権
* 第3章 帝国議会
** [[大日本帝国憲法第34条|第34条]] 貴族院
* 第4章 国務大臣及枢密顧問
* 第5章 司法
* 第6章 会計
* 第7章 補則
** [[大日本帝国憲法第73条|第73条]] 憲法改正
 
== 起草前後の政情 ==
[[ファイル:Meiji constitution memorial.jpg|thumb|250px|『憲法草創之處』碑([[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]])]]
 
明治維新後の日本は不平等条約を改正し、欧米列強と対等の関係を築くために近代的憲法を必要としていた。しかし、当時、欧米諸国以外で立憲政治を実現した国はなかった。民間の憲法案も多数発表されたが、憲法起草の中心になった伊藤博文にいわせれば、「実に英、米、仏の自由過激論者の著述のみを金科玉条のごとく誤信し、ほとんど国家を傾けんとする勢い」であった。伊藤の懸念には根拠がなかったわけではなく、[[1876年]]に[[オスマン帝国]]([[トルコ]])が[[オスマン帝国憲法]]を制定し立憲政治を始めたが、わずか2年で憲法停止・議会解散に追い込まれていた。、日本国内でも一部の保守派だし[[清]]絶対君主制を目指す動きがあった。伊藤日本の現状に適合した憲法を目指した。それまで日本は幕藩体[[科挙]]の中でばらばらの状況であり、一つの国家と国度など比較的という結びつきができてい主的かった。そのために、天皇を中心として国民を一つにまとめる反面、議会に力を持たせ、バランスの取れた憲法を定する必要あっ存在し
 
明治維新後の日本は不平等条約を改正し、欧米列強と対等の関係を築くために近代的憲法を必要としていたため、民間の憲法案も多数発表されたが、憲法起草の中心になった伊藤博文にいわせれば、「実に英、米、仏の自由過激論者の著述のみを金科玉条のごとく誤信し、ほとんど国家を傾けんとする勢い」であった。
 
また、一部の保守派には絶対君主制を目指す動きがあった。伊藤は[[ビスマルク憲法]]が日本の現状に適合しているとして憲法制定を推進した。それまで日本は幕藩体制の中でばらばらの状況であり、一つの国家と国民という結びつきができていなかった。そのために、天皇を中心として国民を一つにまとめる反面、議会に力を持たせ、バランスの取れた憲法を制定する必要があった。
 
憲法の起草は、夏島(現在の[[神奈川県]][[横須賀市]]夏島町)の[[伊藤博文]]別荘を本拠に、[[1887年]](明治20年)[[6月4日]]ごろから行われた。伊藤の別荘は手狭だったことから、事務所として料理旅館の「東屋」(現在の[[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]])を当初は用いていた。しかし、[[8月6日]]、伊藤らが横浜へ娯遊中に泥棒が入り、草案の入った鞄が盗難にあったことから、その後は伊藤別荘で作業が進められた。鞄は後に近くの畑でみつかり、草案は無事だったという(脚注を参照)。
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なお、夏島にあった伊藤の別荘は、後に、[[小田原]]に移築され、[[関東大震災]](大正[[関東地震]])で焼失しているため現存しない。夏島の跡地には明治憲法起草地記念碑が建てられている。また、のちに、伊藤が建てた別荘が野島に残っている(伊藤博文記念館)。
 
== 大日本帝国憲法の問題点 ==
大日本帝国憲法には、「内閣」「内閣総理大臣(首相)」の規定がない。これは、伊藤博文がグナイストの指導を受け入れ、プロイセン憲法を下敷きにして新憲法を作ったからに他ならない。グナイストは伊藤に対して、「イギリスのような責任内閣制度を採用すべきではない。なぜなら、いつでも大臣の首を切れるような首相を作ると国王の権力が低下するからである。あくまでも行政権は国王や皇帝の権利であって、それを首相に譲ってはいけない」と助言した。この意見を採用した結果、戦前の日本は憲法上「内閣も首相も存在しない国」になったが、のちにこの欠陥に気づいた軍部が「陸海軍は天皇に直属する」という規定を盾に政府を無視して暴走するという災いをもたらすことになった。こうした欠陥が「統帥権干犯問題」の本質である。昭和に入るまでは明治維新の功労者である元勲がいたためそのような問題が起きなかったが、元勲が相次いで死去するとこの問題が起きてきた。そしてさらに悪いことに、大日本帝国憲法を「不磨の大典」として条文の改正を不可能にする考え方があったことである。これによって昭和の悲劇が決定的になったと言える<ref>{{Cite book|和書|author=渡部昇一|authorlink=渡部昇一|date=2010-05-21|title=世界史に躍り出た日本|volume=第5巻 明治編|series=渡部昇一「日本の歴史」|publisher=[[ワック]]|isbn=978-4-89831-144-8|url=http://web-wac.co.jp/book/tankoubon/530}}</ref>。
 
{{see also|立憲主義#外見的立憲主義}}
 
== 現行法制度との関係 ==
大日本帝国憲法は、[[大日本帝国憲法第73条|第73条]]に定める改正手続を経て全面改正され、日本国憲法となる。日本国憲法は[[1946年]](昭和21年)11月3日に公布され、[[1947年]](昭和22年)5月3日に施行された。
 
大日本帝国憲法の下で成立した法令は、[[日本国憲法第98条|日本国憲法98条1項]]により、「その条規に反する」ものについて同時に失効している。また、同条の反対解釈により、日本国憲法の条規に反しない法令は、日本国憲法の施行日以降も効力を有する。効力を有する場合、法律は法律として扱われ、[[閣令]]は[[内閣府令]]として、[[省令]]は省令として扱われる。勅令は、法律事項を内容とするものは暫定的効力を認めた後失効させ、法律事項以外を内容とするものは[[政令]]として扱われた。[[物価統制令]]などのいわゆる[[ポツダム命令|ポツダム勅令]](ポツダム命令)は、法律または政令として扱われる。
 
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|21}}
 
== 参考文献 ==
*<span id="ピゴット"/>ピゴット『[[:s:貴族院議員資格及選挙争訟判決規則に対するピゴット氏意見|貴族院議員資格及選挙争訟判決規則に対するピゴット氏意見]]』、伊藤博文『秘書類纂』。
*<span id="1890年勅令221"/>[[:s:貴族院議員資格及選挙争訟判決規則(明治23年勅令第221号)|貴族院議員資格及選挙争訟判決規則(明治23年勅令第221号)]]。官報、1890年10月11日。
*{{Cite book|和書|author=[[伊藤博文]]|date=1889-04-24|title=帝国憲法義解|publisher=[[国家学会]]|id={{近代デジタルライブラリー|789171}}|ref=伊藤1889}}
**{{Cite book|和書|author=伊藤博文|date=1889-06-01|title=帝国憲法皇室典範義解|edition=5版|publisher=[[丸善]]|id={{近代デジタルライブラリー|994279}}|ref=伊藤1904}} - 国家学会蔵版。
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== 関連項目 ==
{{Commonscat|独逸学協会|独逸学協会}}
{{Commonscat|Meiji Constitution}}
{{Wikisource|大日本帝國憲法|大日本帝国憲法}}
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== 外部リンク ==
*伊東巳代治関係文書『[{{NDLDC|3947565}} ロエスレル氏起案日本帝国憲法草案]』
** [http://www.ndl.go.jp/site_nippon/kensei/shiryou/simage/Gazou_14_1.html 「ロエスレル起案日本帝国憲法草案」]
*[http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j02.html 国会図書館]
*{{Yahoo!百科事典|大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう)|author=[[池田政章]]}}
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*伊藤博文 著『[{{NDLDC|1272168}} 帝国憲法義解・皇室典範義解]』 - 近代デジタルライブラリー
*『[http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi027.pdf/$File/shukenshi027.pdf 明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料(明治憲法の制定過程について)]』、最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会(2003年(平成15年)5月) - 衆議院憲法調査会事務局
 
 
{{大日本帝国憲法}}
{{DEFAULTSORT:たいにつほんていこくけんほう}}