「フリードリヒ・エンゲルス」の版間の差分

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Kowarabi (会話 | 投稿記録)
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[[Image:Skiz-hegel.png|thumb|230px|エンゲルスによる風刺画。青年ヘーゲル派の人物が描かれている{{#tag:ref|このスケッチに描かれているのは[[青年ヘーゲル派]]フライエンの代表人物である。左から[[アーノルド・ルーゲ]]と彼に拳を挙げて向かう[[ブルーノ・バウアー]]、机を叩く[[エトガー・バウアー]]、煙草を吹かす[[マックス・シュティルナー]]と席について様子を眺める[[カール・ケッペン]]がいる。そして争う人々の上にはプロイセンの文部大臣アイヒホルンをもじったリス(独語でアイヒヒョーヒェン)とギロチンが描かれている。|group=注釈}}<ref name="ハント(2016)80">[[#ハント(2016)|ハント(2016)]] p.80</ref>。]]
 
1842年、エンゲルスはベルリン暮らしを満喫していた。愛犬に「ナーメンローザ」(名無しという意)という名をつけ、昼は大学の講義、夕べには帰宅して犬の散歩がてらに町を歩き、酒場で夕飯を食べる暮らしをしていた<ref name="ハント(2016)79">[[#ハント(2016)|ハント(2016)]] p.79</ref>。青年ヘーゲル派の知識人たち、ブルーノ・バウアー、弟[[エトガー・バウアー]]、そして[[マックス・シュティルナー]]らと交流を重ね、エンゲルスはこれらの知識人の一派として認知されるようになった<ref name="土屋(1995)13">[[#土屋(1995)|土屋(1995)]] p.13</ref>。しかし、青年ヘーゲル派の知識人たちは中産階級的なライフスタイルへの反感から自由人を指す「フライエン」を称して犬儒的な快楽主義者を気取る素行不良なものも多かった<ref name="ハント(2016)80">[[#ハント(2016)|ハント(2016)]] p.80</ref>。エンゲルスも周囲から危険思想に傾倒している青年として周囲から、そして両親からも心配されていた。
 
1842年はエンゲルスにとって重要な年となった。この年の11月、後にエンゲルスの「第一バイオリン」となる[[カール・マルクス]]と出会うのである。きっかけはこの時期、エンゲルスが初期の[[社会主義]]者[[モーゼス・ヘス]](1812-1875年)や[[ローレンツ・シュタイン]](1815-1890年)の活動に刺激を受けたことにある。