「福田雅太郎」の版間の差分

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* [[1928年]](昭和3年)1月 - 大日本相撲協会会長
* [[1930年]](昭和5年)[[4月18日]] - 枢密顧問官
 
== 陸軍大臣事件 ==
[[山縣有朋]]亡き後、上原勇作は上原閥のNo.2であった田中義一や長州閥に配慮した人事を行った。[[参謀総長]]に田中と同期の[[河合操]]を、[[教育総監]]に同期で長州閥の[[大庭二郎]]を据え、次の陸軍大臣に田中の親友の福田を推挙した。しかし、田中はこれを造反の好機と見た。福田の脛に傷(甘粕事件)があるのを利用し、[[清浦奎吾]]、河合、大庭を説得して自身の腹心である[[宇垣一成]]を陸相に就けることに成功したのである。さらに三長官一致の原則を導入し、上原の権力を削ごうとした。これ以後、上原閥と長州閥(田中閥)の抗争が始まることとなった。福田は親友に裏切られ、そのまま予備役入りすることになってしまったのである。
 
== 栄典 ==
 
;位階
* [[1890年]](明治23年)[[10月15日]] - [[正八位]]<ref name="huyu"/>