「五族共和」の版間の差分

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'''五族共和'''(ごぞくきょうわ)は、[[中華民国]][[北京政府]]が掲げていた[[漢民族|漢族]]、[[満州民族|満州族]]、[[モンゴル|蒙古族]]、回(現在の[[回族]]ではなく[[ウイグル人|ウイグル族]]など[[新疆ウイグル自治区|新疆]]のイスラム系諸民族を指す)および[[チベット民族|チベット族]]の五民族の協調を謳ったスローガン。中華民国北京政府を象徴するスローガンとして、北京政府の国旗・五色旗と関連付けて考えられた。(ただし五色のどの色がどの民族にあたるかは公式に定められたことはない)
 
五族共和はもともと革命派のスローガンではなく、立憲派が革命派の排満論に対抗して提唱した五族不可分論を起源としている。<ref>片岡一忠「辛亥革命期の五族共和論をめぐって」『中国近代史の諸問題』、国書刊行会、1984年</ref> <ref>村田雄二郎「中華民族論の系譜」、飯島渉、村田雄二郎、久保亨編『シリーズ20世紀中国史1中華世界と近代』、東京大学出版会、2009年</ref> 辛亥革命勃発後、各省代表が中華民国建国の成立について話し合った際には、中華民国のスローガンとして採用された。
 
五族共和は、[[1912年]][[元旦]]に[[中華民国]]が成立した際に[[孫文]]が[[南京]]で行った中華民国臨時大統領就任演説でも掲げられていたが、孫文自身は臨時大総統就任時と北方で演説した際にしか五族共和には言及しておらず、北京政府と対決後は五族共和は誤りであったと主張し、もっぱら大中華主義による同化主義を進めていくようになる。
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清朝の政体は五族のそれぞれが別の国家とも言える政体を維持し、清朝皇帝はその五つの政体に別個の資格で君主として君臨するという一種の同君連合であった。そのため、漢族社会に深く溶け込んでいた満州族を除く[[モンゴル]](蒙古族)、西域[[ムスリム]]社会(回)、[[チベット]]の実質三ヵ国は、漢族による中華民国政府の統治下に置かれることをよしとせず、清朝皇帝権の消滅をもって独立国家であると主張した。
 
== 脚注 ==
<references/>