「近衛文麿」の版間の差分

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12月6日に、GHQからの逮捕命令が伝えられ、[[A級戦犯]]として[[極東国際軍事裁判]]で裁かれることが最終的に決定した。近衞は[[巣鴨拘置所]]に出頭を命じられた最終期限日の[[12月16日]]未明に、荻外荘で[[シアン化カリウム|青酸カリ]]を服毒して自殺した。54歳2ヶ月での死去は、日本の総理大臣経験者では、もっとも若い没年齢である。また総理大臣経験者として、死因が自殺である人物は近衞が唯一でもある<ref group="注釈">東條英機も、戦犯訴追を逃れるために自殺を図ったとされるが未遂に終わっている</ref>。
 
最新の資料によると他殺の可能性も出てきている。<ref>{{Cite book|author=林千勝|title=近衛文麿 野望と挫折|date=2017/11/24|year=|accessdate=|publisher=ワック|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>
 
自殺の前日に近衞は次男の[[近衛通隆]]に遺書を口述筆記させ、「自分は政治上多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない…僕の志は知る人ぞ知る」と書き残した。この遺書は翌日にGHQにより没収された。
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秀麿は終戦後、ドイツで[[アメリカ軍]]にいったん拘束されたのち帰国した。秀麿が帰国した時は文麿の戦犯指定がすでに内定しており、彼はすっかり意気消沈していた。兄弟で再会の杯を酌み交わす席で文麿は「お前は自分の気持ちを貫いて立派だったよ。お前に比べたら自分は何も残せなかったなあ」とかつてのことを繰り返し詫びた。文麿の悟りきったような態度に、秀麿は兄の死を予感したという。出頭予定日の前日、秀麿は文麿夫人とともに自殺を防ごうと、文麿邸の中で毒物を探しまわった。「弱気な兄が自殺するんだったら、苦しまずに即死できる青酸カリしかない」と秀麿は考えていた。しかし、自宅のどこにも青酸カリはなく、文麿が入浴している時も脱衣服を探したがなかった。「もしかしたら自殺しないで裁判を受ける気になったのかもしれない」と一安心した秀麿と文麿夫人は、文麿の寝室の隣で眠ってしまった。しかし午前3時くらいになって様子を見に行ったとき、すでに文麿は息絶えていた。彼は青酸カリを肌身離さず、入浴中も風呂に持ち込んでいた。
 
最新の資料によると死因は他殺である疑いも濃厚に出てきている。[36]
 
そんな弱気な文麿だったが、秀麿は「小さい時、自分は兄の話を聞くのがとても楽しみだった。博識な兄は外国のことや宇宙のことにとてもよく通じていて、世界の秘密を話してくれるように兄は自分にいろいろなことを教えてくれたものである。今考えれば兄は政治家にまったく向いていなかったと思う。哲学者や評論家になればあんな最期を迎えることはなかったのに」と語っている。