「金剛峯寺」の版間の差分

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「しかし保延6年(1140年)には高野山内で勢力を急拡大させた興教大師覚鑁に多数の僧徒が反発し、覚鑁がいた密厳院を襲うなどして覚鑁一派を高野山から下山させた(錐もみの乱)。覚鑁らはやがて根来寺と新義真言宗を成立させてゆく」の文章の追加と校正。
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[[弘仁]]7年([[816年]])、高野山を賜った空海は、翌年から弟子達に命じて伽藍の建立に取りかかったが、交通不便な山中のことで、工事ははかどらなかった。空海の在世中に完成した堂宇はごくわずかであり、無論、当時の建築物は現存していない。空海の他界後、弟子であり実の甥でもあった[[真然]]が約20年をかけて根本大塔などの伽藍を整備した。[[承和 (日本)|承和]]2年([[835年]])には[[定額寺]]に列し[[官寺]]に准ずる[[寺格]]を得たが(『[[続日本後紀]]』承和八年二月七日条)、その後は京都の[[東寺]]との確執もあり、[[正暦]]5年([[994年]])には落雷による火災のため、ほとんどの建物を失い、僧はみな山を下りるという、衰亡の時期を迎えた。
 
荒廃した高野山は、[[長和]]5年([[1016年]])頃から、[[定誉]]によって再興された。[[治安 (元号)|治安]]3年([[1023年]])には[[藤原道長]]が参詣。平安末期には[[白河天皇|白河上皇]]、[[鳥羽天皇|鳥羽上皇]]が相次いで参詣するなど、高野山は現世の浄土としての信仰を集めて栄え、寺領も増加した。

しかし[[保延]]6年([[1140年]])には高野山内で勢力を急拡大させた興教大師[[覚鑁]]に多数の僧徒が反発し、覚鑁がいた密厳院を襲うなどして覚鑁一派を高野山から下山させた([[錐もみの乱]])。覚鑁らはやがて[[根来寺]]と[[新義真言宗]]を成立させてゆく。

源平の騒乱期には、高野山で出家する貴族や武士が目立つようになった。彼らは高野山に草庵を建てて住み、仏道に励んだ。また、[[北条政子]]が亡夫[[源頼朝]]のために建てた[[金剛三昧院]]のように、有力者による寺院建立もあり、最盛期には高野山に2,000もの堂舎が立ち並んだという。
 
=== 中世・近世 ===