「坂田三吉」の版間の差分

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{{quotation|「ほんまの先生は真率という言葉がありますやろ。あの通りですわ。ちょっと変わったとこはあったけど、素直で生地のまま、それはもう何のまじり気もない、あんな人がよう将棋させるなと思うような、純粋でええ人でした。」|知人の書道家北野千里の証言}}
 
阪田夫婦が日蓮宗系の「[[能勢妙見山_(日蓮宗)|みょうけんさん]]」の熱心な信者だという、映画版でも描かれている名なエピソードも、戯曲作者の[[北条秀司]]が追加設定したフィクションであった<ref>北条秀司「演劇太平記(1)」(毎日新聞社)P.41</ref>。なお、おなじ[[妙見山 (能勢)|妙見山]]にある天台宗系修験道の寺「[[本瀧寺]]」で、阪田が修行をしたことがあるという話「実際あったこと」として、別途、伝えられているようである<ref>北条秀司「演劇太平記(1)」(毎日新聞社)P.41</ref>。
 
なお、戯曲作者の[[北条秀司]]は、戯曲『王将』第一作の執筆前に、阪田の遺族(次女夫婦)に取材を申し込んだが、拒否されたとしている<REF>北条秀司『演劇雑記帳』(読売新聞社)P.95</REF>。また、戯曲を盛り上げるために意識的にフィクションを盛り込んだのだが、作品の大ヒットにより、戯曲の描写が「阪田三吉の人生そのまま」と受け取られることに困惑していた<REF>『演劇雑記帳』(読売新聞社)P.95</REF>。また阪田の家族の反応としては、戯曲第一作の上演の際、阪田の長男や次女は、好意的な反応をしたという記録がある<REF>『演劇雑記帳』(読売新聞社)P.95</REF>。