「フィリピンの戦い (1944年-1945年)」の版間の差分

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1944年から1945年の'''フィリピンの戦い'''(ふぃりぴんフィリピンのたたかい)は、[[第二次世界大戦]]後期において[[フィリピン]]奪回を目指す[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍と、防衛する日本軍との間で行われた戦闘である。日本軍「[[捷一号作戦]]」と呼ばれる計画に基づいて防衛を試みたが、アメリカ軍を中心とする連合軍が勝利を収めた。
 
== 背景 ==
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1941年の時点で既に独自の憲法と議会、行政府、最高裁を持ち、アメリカ軍の監督下で独自の[[フィリピン軍]]の創設が着手されていた。
 
一方日本から見てフィリピンは日本本土と[[オランダ領東インド]]などの南方資源地帯との中間に位置し、アメリカ軍はここを拠点にしてシーレーンの遮断が行えると認識していた。
日本が対米参戦を決意した要因の一つにはアメリカを無視してオランダ領やイギリス領の南方資源地帯を占領してもアメリカ軍がフィリピンを拠点にすれば容易に海上封鎖ができると考えたためであった。
日本軍は[[真珠湾攻撃]]直後の1941年12月22日にルソン島に上陸し、翌年1月2日には首都マニラを占領した。
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日本の「戦力は既に破断界に達している」<ref name="kojima"/>と認識していた参謀本部は第2案を推薦、[[梅津美治郎]]参謀総長もこの案を推し25日[[陸軍大臣]][[杉山元]]と協議してこれを採用した。[[児島襄]]は初期著作『太平洋戦争』で、「もし第二案の決戦で敵に大打撃を与えれば、同じ和を求めるにしても、ずるずると敗戦するよりも立場は有利になるだろう」と評した。これがいわゆる「一撃講和」の基本的な考えである。
 
この間、大本営は7月18日から3日間にわたり陸海軍合同研究を行って新たな防衛計画「[[捷号作戦]]」を立案し、7月24日に裁可された。作戦は地域別に捷一号から捷四号と名付けられ、このうちフィリピン方面の防衛作戦が捷一号作戦とされた。日本にとって、フィリピンを奪還されることは、本土と南方資源地帯の連絡が遮断されることであり、戦争全体の敗北に繋がるものであった。
 
陸軍は24日、作戦準備を各軍<!--日本陸軍が用いた戦略単位としての「軍」の意味-->に命じた。ルソン島、レイテ島ほかの地区を防衛するために[[第14方面軍 (日本軍)|第14方面軍]]が1944年8月4日に創設された。方面軍司令官となった山下大将がルソン島ニルソン飛行場へ降り立ったのは、[[1944年]][[10月6日]]であった。第14方面軍は、ルソン島に4個師団、[[レイテ島]]に1個師団、[[ミンダナオ島]]に2個師団、[[ミンドロ島]]・[[サマール島]]・[[セブ島]]・[[ボホール島]]に各1個大隊、その他に計3個大隊を配置した。このほか、[[ボルネオ島]]には9月に[[第37軍 (日本軍)|第37軍]](2個旅団)が置かれた。