「三角帽子 (ファリャ)」の版間の差分

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== 作曲の経緯 ==
[[1903年]]にファリャと台本作家の[[カルロス・フェルナンデス・シャウ]]は[[王立サン・フェルナンド美術アカデミー]]で開かれるコンクール用の題材としてアラルコンの小説『三角帽子』に目をつけたが<ref>この時には[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]の『[[神曲]]』に基づく『フランチェスカ・ダ・リミニ』も計画された。</ref>、歌劇『[[はかなき人生]]』([[1913年]])の制作が優先され、この企画は棚上げとなった<ref name=daikan>CD『代官と粉屋の女房』(harmonia mundi、HMA 1951520)ライナーノート </ref>。
 
その後ファリャは『[[恋は魔術師]]』([[1915年]])を共同制作した[[グレゴリオ・マルティネス・シエラ]]とともに、『三角帽子』に基づく[[パントマイム]]を制作することにした<ref name=daikan></ref>。ファリャが作曲途中であった[[1916年]]に[[バレエ・リュス]]の主宰である[[セルゲイ・ディアギレフ]]がファリャにバレエ音楽の作曲を依頼。ディアギレフは最初『[[スペインの庭の夜]]』をバレエ化したいと考えていたが、これにファリャが熱心でなく、アラルコンの小説『三角帽子』を元にした『代官と粉屋の女房』(''El Corregidor y La Molinera'' )の再構成を提案した。ディアギレフはこれに同意し、振付に[[レオニード・マシーン]]を、さらに舞台・衣装デザインに[[パブロ・ピカソ]]を起用した<ref>このとき、ピカソはファリャの肖像画も書いている。</ref>。