削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
34行目:
[[197年]]、袁術が帝位に就くと九江太守に任命されたが、任官せず妻子を捨てて[[江南]]に帰還した。この頃、孫策が呉郡と[[会稽郡]]を平定しており、孫賁はそのまま孫策に従った。
 
[[199年]]、孫策が[[劉勲]]や[[黄祖]]を攻撃するとそれに従軍した。孫策は遠征の帰りに劉繇の病死を知り、[[豫章郡|豫章]]に立ち寄って平定し、上表して孫賁を豫章太守とした<ref>『江表伝』によると、廬陵太守を自称する僮芝という人物に備えるため、孫策の命令で孫輔や[[周瑜]]とともに[[南昌]]に残された。孫策が形勢が有利になった後、すぐに攻めかかるように孫賁に命じていたため、僮芝が病気になったことを知ると、孫賁は直ちに孫輔と周瑜を使って廬陵を攻略した。</ref>。後に、都亭侯に封じられた。
 
[[200年]]、[[曹操]]の手配の下で、孫賁の娘[[曹彰]]に嫁いだが、まだ三歳になっていなかったという。