「佐高信」の版間の差分

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== 人物 ==
父・兼太郎は'''茜舟'''(せんしゅう)の[[雅号]]を持つ[[書道家]]・教師で<ref name="aera">『現代の肖像』[[AERA]]編集部・編([[朝日ソノラマ]])</ref>、支持政党は一貫して[[日本社会党]](現・[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]])である。
[[山形県立酒田東高等学校]]、[[慶應義塾大学]]法学部法律学科卒業。[[1967年]]に大学を卒業後、郷里・山形県で高校教員となるが同僚女性(現在の妻)との出会いがあり、前妻と離婚し[[1972年]]に再度上京した。佐高の全面協力により書かれた評伝によると、次のような事情があったという。
 
[[山形県立酒田東高等学校]]、[[慶應義塾大学大学院法学研究科・法学部|慶應義塾大学法学部]][[法学|法律学科]]卒業。[[1967年]]に大学を卒業後、郷里・山形県で高校教員となるが同僚女性(現在の妻)との出会いがあり、前妻と離婚し[[1972年]]に再度上京した。佐高の全面協力により書かれた評伝によると、次のような事情があったという。
<blockquote>「昭和四十二年の春、卒業と共に帰郷して[[山形県立庄内農業高等学校|庄内農高]]の社会科教師となる。ここで三年、教科書はいっさい使わず、ガリ版の手製テキストで通したため“赤い教師”の非難を浴びた、庄内工高に転じて結婚もしたが、同じく“[[赤軍派]]教師”のレッテルを貼られる。教育の現場に怒って県教組の反主流派でがんばるうちに、同僚教師と同志的恋愛に陥った。「佐高なんかのツラも見たくない」と反発する教師仲間は、陰湿に白眼視。母・千代は孫娘を抱いて死ぬと言い出し、佐高も自殺を思いつめる。四十七年八月、ついに辞表を出して上京」<ref name="aera"/></blockquote>
 
<blockquote>「昭和四十二年の春、卒業と共に帰郷して[[山形県立庄内農業高等学校|庄内農高]]の[[社会 (教)|社会科]]教師となる。ここで三年、教科書はいっさい使わず、ガリ版の手製テキストで通したため“赤い教師”の非難を浴びた、庄内工高に転じて結婚もしたが、同じく“[[赤軍派]]教師”のレッテルを貼られる。教育の現場に怒って県教組の反主流派でがんばるうちに、同僚教師と同志的恋愛に陥った。「佐高なんかのツラも見たくない」と反発する教師仲間は、陰湿に白眼視。母・千代は孫娘を抱いて死ぬと言い出し、佐高も自殺を思いつめる。四十七年八月、ついに辞表を出して上京」<ref name="aera"/></blockquote>
 
上京後は[[総会屋]]系経済誌『現代ビジョン』編集部員を経て編集長となる。その後、評論家活動に入った(『現代ビジョン』誌については下の項目も参照)。
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[[経済小説]]や[[歴史小説]]にも造詣が深く、[[池波正太郎]]、[[藤沢周平]]の熱心なファン。『[[金融腐蝕列島]]』([[角川書店]]、[[1997年]])など[[高杉良]]の著書の解説を多く手がける。
 
[[第44回衆議院議員総選挙]]直前の[[2005年]][[9月4日]]放送「[[サンデープロジェクト]]」([[テレビ朝日]])に『[[ (日本 1996-)|社民党]]応援団』として出演するなど、公然とした社民党支持者である。また、2007年3月まで[[新社会党]]の機関紙『週刊新社会』にコラム『毒言毒語』を連載していた。[[土井たか子]]らと“憲法行脚の会”を結成、[[加藤紘一]]との対談集会を開くなど護憲運動を行なっている。[[日本共産党]]には批判的で、[[九条の会]]への参加を呼びかけられた時は日本共産党の関係者が加わっていることを理由に拒否していた。
2005年3月、「[[マガジン9]]条」発起人となった<ref>[http://www.magazine9.jp/about/ マガジン9とは?]</ref>。
 
[[小泉純一郎|小泉内閣]]・[[第1次安倍内閣|安倍内閣]]への批判から、「クリーンな[[タカ派]]よりはダーティでも[[ハト派]]の方が良い」と、加藤紘一や[[野中広務]]、[[鈴木宗男]]ら[[自由民主党 (日本)|自民党]]内の[[左翼|左派]]や[[平成研究会|旧竹下派]]人脈との関係を深め、[[ロッキード事件]]で失脚した[[田中角栄]]に関してもかつてはこき下ろしていたものの今では「ダーティなハト」として相対的に評価している。なお[[田中秀征]]については「クリーンなハト」としており、昔から親しい。
 
== 批評活動と自身の評価 ==