「野津道貫」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
cat追加、その他調整
18行目:
}}
 
'''野津 道貫'''(のづ みちつら / どうがん)、[[天保]]12年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]([[1841年]][[12月17日]]) - [[1908年]]([[明治]]41年)[[10月18日]])は、[[幕末]]の[[薩摩藩]]士、明治の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]。[[都督部|東部都督]]、[[教育総監]]、[[第4軍 (日本軍)|第4軍]]司令官を歴任した。[[仮名 (通称)|通称]]は七次。[[諱]]は道貫。最終階級は[[元帥 (日本)|元帥]][[陸軍大将]][[正二位]][[大勲位菊花大綬章|大勲位]][[金鵄勲章|功一級]][[侯爵]]。兄に陸軍中将・[[野津鎮雄]]がいる。
 
== 経歴 ==
53行目:
* [[乃木希典]]が[[学習院]]学長時代、「良家の淑女写真コンテスト」という日本初の[[ミスコン]]が行われ、学習院3年生(当時16歳)の[[末弘ヒロ子]]が優勝した。これに乃木は「自分の美しさを誇示するとは如何」と問題視しヒロ子を退学処分とした。ヒロ子は弁解をしなかったが、後にこの件はヒロ子の義兄が勝手に写真を応募したものであったという次第を知り、乃木は激しく後悔し中退者となったヒロ子の将来を案じて良縁を求めて奔走した。それを知った野津が「うちの長男(鎮之助・後の[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員)でどうか」と申し出、望外の縁談で乃木の面目を保った。
 
== 栄典・授章・授賞 ==
;位階
* [[1874年]](明治7年)[[2月18日]] - [[従五位]]<ref>『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号109</ref>
94行目:
 
==脚注==
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[析木城の戦い]]
162行目:
[[Category:大日本帝国陸軍将官]]
[[Category:貴族院侯爵議員]]
[[Category:日本の伯爵]]
[[Category:大勲位菊花大綬章受章者]]
[[Category:勲一等旭日桐花大綬章受章者]]