「ルイ14世 (フランス王)」の版間の差分

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摂政アンヌから宰相に任じられたマザランはリシュリューの腹心だった人物で、前任者の中央集権化政策を引き継ぎ、貴族を抑制して国王の権力を強化しようと図っていた<ref>[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],p.109.</ref>。また対ハプスブルク家政策としての三十年戦争への介入も続けた。有能な[[コンデ公]][[ルイ2世 (コンデ公)|ルイ2世]]や[[テュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ|テュレンヌ子爵]]に率いられたフランス軍は戦況を有利に展開させ、マザランは終戦交渉に入る。マザランの外交手腕によりフランスは[[アルザス地域圏|アルザス地方]]を獲得し、神聖ローマ帝国の分裂を決定づけ、ハプスブルク家の勢力の弱体化に成功することになる<ref>[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],p.107.</ref>。だが一方でその戦費も莫大なものとなり、重税が課され民衆の不満が高まっていた<ref>[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],p.108.</ref>。
 
和平交渉が大詰めとなった[[1648年]]に[[フロンドの乱]]が勃発する。7月、政府が新税の導入を図ると、これに反対するパリ高等法院が他の高等諸院と合同してアンタンダン(地方監察官)の廃止を含む27カ条の要求書を出した<ref>[[#大野他 1974|大野他 1974]],p.56.</ref>。マザランは一旦は譲歩の姿勢を示すが、8月に入ると首謀者を逮捕する。これに反発した[[パリ]]の民衆がバリケードを築き蜂起した。パリ高等法院の[[法服貴族 (フランス)|法服貴族]]と民衆が結びついてパリは無政府状態に陥り、ルイ14世と摂政アンヌはパリを脱出する。それから程なくして[[ヴェストファーレン条約]]が締結されて三十年戦争が終結すると、コンデ公率いるフランス軍が国王を助けるために帰還した。[[1649年]]1月にコンデ公はパリを包囲する。3月に[[リュイユ和議]]が締結され、乱はひとまず収まった('''高等法院のフロンド''')<ref>[[#吉田 1978|吉田 1978]],p.12.</ref>。
 
王室はパリに戻ったが、乱平定の功績者コンデ公とマザランが対立して'''貴族のフロンド'''が勃発する。マザランに対する貴族と民衆の不満から反乱軍の勢力は強く、マザランは一時亡命を余儀なくされ、ルイ14世は再びパリから逃れざるを得なくなった<ref>[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],pp.112-113.</ref>。パリに入城したコンデ公が優位に立つが、1652年に満13歳を迎えたルイ14世が成人を宣言するとパリ高等法院は王権側に付き、コンデ公はパリからの退去を余儀なくされてフロンドは分裂した<ref>[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],p.113.</ref>。1652年に優位に立った王太后がマザランをフランスに呼び戻すと高等法院は再び王権に背き、コンデ公がパリに舞い戻った。だが、コンデ公はパリ市民の支持を受けられず、混乱の長期化に疲弊したフロンド派が相次いで脱落し、[[1653年]]にコンデ公は[[南ネーデルラント|スペイン領ネーデルラント]]へ亡命し、ルイ14世はパリへ帰還して乱は終結した<ref>[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],p.114.</ref>。