「クラウディオ・メールロ」の版間の差分

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唯一明らかなことは、[[1586年]]に、メールロが新任のパルマ公[[アレッサンドロ・ファルネーゼ (パルマ公)|アレッサンドロ・ファルネーゼ]]にパルマでの雇用を続けてくれるよう嘆願の手紙を記していることである。同年のオッターヴィオが亡くなった直後の記録は欠けているが、この間メールロがパルマにずっといたと考えるのが今のところ自然であろう。
 
[[1587年]]、メールロはパルマの聖堂のオルガン奏者に任命され、[[1591年]]からは{{仮リンク|ステッカータの聖母マリア教会|en|Sanctuary of Santa Maria della Steccata}}のオルガニストも兼任している。この時に、メールロはブレシアの偉大なオルガン製作家一族の末裔であったコスタンツォ・アンテニャティに命じてオルガンに改変を加えたことが知られている。このことは、メールロの音楽を考える上で重要な出来事である。おそらく、メールロはヴェネツィアで得た経験をもとに、彼の新しい作曲法を実現するためにオルガンの改変を求めたのだろうと考えられるからである。
 
メールロは晩年、ヴェネツィアやローマを幾度か訪れ、2冊の「オルガンのためのトッカータ」(''Toccate per organo'')を出版している。