「祇園祭 (1968年の映画)」の版間の差分

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== 概要 ==
当初は[[1961年]]、映画監督の[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]が[[萬屋錦之介|中村錦之助]]主演で[[東映]]に企画を提出し、西口克己から原作の映画化権も買い、翌年夏より製作する予定で脚本作成を進めていたが<ref name=itoh61>{{Cite book|和書|title=伊藤大輔「祇園祭と流人」/『キネマ旬報・1961』(1961年6月上旬号』|publisher=キネマ旬報社|isbn=|pages=64)64頁}}</ref>、未定稿の段階で製作費が莫大になることが問題になり、製作中止となった。その後、映画界の斜陽、時代劇の衰退によって、東映は撮影所の合理化とスタッフや俳優などの人員整理を断行、また時代劇から[[ヤクザ映画#東映任侠路線|任侠路線]]への転換を行うが、それに反発した錦之助は、[[1966年]]春に東映を退社、活躍の場をテレビと舞台に求める。伊藤大輔もフリーになって、錦之助の舞台公演の脚本・演出を手がけていた。
 
「祇園祭」の映画化が再浮上し、製作が具体化したのは、京都府政百年記念事業として[[京都府]]及び[[京都市]]の協力が得られる見通しが立った[[1967年]]7月で、「日本映画復興協会(代表中村錦之助)」の名の下に同年8月に製作発表された。監督伊藤大輔、主演中村錦之助、製作費1億5千万円、同年11月クランク・イン、翌年4月公開の予定だった。しかし、脚本の問題、スタッフの降板<ref>製作当初から原作者、プロデューサー、脚本家、監督ら相互のコミュニケーションが滞り、企画当初から尽力した[[竹中労]]、[[八尋不二]]、[[加藤泰]]らが降板している。</ref>、製作費の調達などで難航し、ようやくクランク・インしたのは[[1968年]]8月だった。その後も、脚本完成の遅れ、伊藤大輔から[[山内鉄也]]への監督の交代、出演者の日程調整、製作費の増大(約3億円)、さらには政治的介入、ロケ現場での暴力団による妨害もあり、まさに艱難辛苦の末に完成した映画であった。最初の企画から完成まで実に7年を経た労作でもある<ref name="Momo_kun">{{Cite web |url=http://www.occn.zaq.ne.jp/momokun/cinema/essay/essay03/gionnmatsuri.htm|title=エッセイ - 祇園祭|publisher=Momoくん ひみつきち|date=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070218065246/http://www.occn.zaq.ne.jp/momokun/cinema/essay/essay03/gionnmatsuri.htm|archivedate=2007-02-18|accessdate=2013-06-03}}</ref>。
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そうした一方で大手映画会社の主導ではなく、新たに設立された独立プロの日本映画復興協会による自主製作であったため、[[五社協定]]に縛られた映画会社の枠にとらわれず、東映、東宝、松竹出身のスター俳優が進んで参加し、フリーの新劇俳優も加わり、豪華で異色な配役となった。また、群衆シーンのエキストラとして、京都市民も数多く参加している。
 
新日本興業・松竹映配の配給で、封切りは[[1968年]][[11月23日]]。通常の邦画系映画館ではなく洋画系映画館にてロードショー公開され、大ヒットを記録した。東京では新宿ミラノ座、渋谷パンテオン、松竹セントラルの3館で翌年1月10日までの7週間上映され、観客動員数30万9,800 人、興行収入1億1,441万円を上げ、それまでの邦画ロードショーの新記録を樹立している<ref>{{Cite book|和書|title=キネマ旬報・1968』(1968年2月決算号|publisher=キネマ旬報社|isbn=|pages=86)86頁}}</ref>。ロードショー終了後はフリー・ブッキングで日本各地の映画館や市民ホールで上映された。この成功は、日本の観客が時代劇に関して興味を持ち続けていることを証明し、また、映画会社大手5社によるブロック・ブッキングの配給制を打破したという点で、日本映画産業の将来に大きな影響を与えた<ref name="hasan" />。
 
作品の上映権は現在京都市が所持しており、その他権利関係が複雑に絡んでいるためソフト化の機会は得られておらず、[[祇園祭]]のシーズンに[[京都文化博物館]]・映像ギャラリーで行われる上映会が唯一の一般公開である<ref name ="Momo_kun"/>。