「集団就職」の版間の差分

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『日本近現代史入門 黒い人脈と金脈 単行本』広瀬 隆 (著)452頁 </ref>次男など年少の男性は[[家督]]を[[相続]]した[[兄]]である[[長男]]の扶養家族となっていた。次男以下は[[農業]]の手伝いをするという社会だった。農村では農家の次男・三男について、就職などの雇用問題や、結婚して家庭生活を過ごせるかの家族問題があった。[[東北地方]]などの農村では一家の平均兄弟数が6人以上と多く人口が過剰であり、人手不足の都市部と人口爆発の農村部の利害が一致した。また、1960年前後には[[エネルギー革命]]が起こってエネルギー源が国内産の[[石炭]]から外国産の[[石油]]に変わったために国内の[[炭鉱]]の多くが閉山に追い込まれ、石炭産業という基幹産業を失った旧産炭地においても余剰人口が急増した。これらの旧産炭地の青少年層も都市部への新たな労働力供給源となった。安い給料で文句を言わず働いてくれる若い人間を[[京浜工業地帯]]・[[中京工業地帯]]の上野駅でノボリを立てて歓迎する雇い主が求めた結果、昭和30年代に15歳から24歳の働き盛りに東京都の人口が一挙に100万人近くも急増する人口の大移動が起きた。<ref>『日本近現代史入門 黒い人脈と金脈 』広瀬 隆 (著)453頁 </ref>
;教育学的要因
:進学率の問題として、昭和30年代から昭和40年代当時の高度経済成長期中卒者の高校進学率ですら半数程度であり当時の大学進学率に至っては短期大学を含めても1割程度でしかなく、「義務教育卒業ですぐ就職することが当たり前」の社会であって、「高校・大学は中流階層の通う上級学校」とみなされていた。高校進学相応の学力を有していても、家庭の事情や経済的な理由で進学を諦めることも多かった時代であった。また学力の問題だけでなく、当時は兄弟数や子供数が多い農家や貧困家庭が多かった。
;経済学的要因
:[[農業]]・[[林業]]・[[漁業]]の[[第一次産業]]が中心の社会で自営業が多かったこともある。全日制高校に進学して普通の環境で勉強したくても家庭の事情で進学できず、やむをえず定時制高校に進学する若者がたくさんいた。彼らは町工場や商店で働き、中卒労働者の若者が[[井沢八郎]]の『[[あゝ上野駅]]』の歌に共感したことに象徴されるように[[東北地方]]や[[九州地方]]から[[太平洋ベルト|4大工業地帯]]を目指して集団就職列車で都会に向かい、15歳で経済的に自立して社会人となり実質的に成人した。