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献公13年([[紀元前564年|前564年]])、献公は楽人曹に命じ、宮中の妾に琴を教えさせたが、上達しなかったので曹が妾を鞭打った。妾は献公の寵愛をかさにして曹を讒言した。そこで献公は曹を300回鞭打った。
 
献公18年([[紀元前559年|前559年]])、献公が孫林父と[[殖]](恵子)に会食を約束したため、2人は礼装で公宮にて待っていた。日が暮れても献公が現れないので、2人が献公の所へ行くと、献公本人は公宮の外で鴻(おおとり:水鳥)狩りに夢中になっていた。すると献公は約束を破ったにも関わらず猟服を着たまま話をしてきたので、2人は怒って領邑である戚へ帰った。その後、孫林父の子である孫蒯は父の代わりに献公と宴飲した。このとき献公は大師(音楽を掌る大夫)に『巧言』(小雅)の終章<ref>『[[詩経|詩]]』小雅-『巧言』の終章には「かれ何人ぞや、河のほとりに住み、力もなく勇気もなく、ひたすら乱のもとをひらく」とあり、孫文子が河のほとりで乱を起こそうとしているのを諷したもの。</ref>を歌わせようとしたが、大師は相手に悪いと辞退した。そこで楽人曹(師曹)が名乗りを上げて『巧言』の終章を歌いあげた。孫蒯は恐れて父にこの事を報告した。4月、怒った孫林父は献公を攻撃し、献公を衛から放逐した。孫林父は献公の従弟である公孫秋を立てて衛君([[殤公 (衛)|殤公]])とした。放逐された献公は斉へ逃れ、聚邑に住まわせてもらった。
 
殤公12年([[紀元前547年|前547年]])2月、孫林父が政争に敗れて晋に出奔すると、晋の[[平公 (晋)|平公]]に献公の復位を求めた。これを聞いた斉の[[景公 (斉)|景公]]も献公と共に晋へ赴き、献公の復位を求めた。そこで晋の平公は衛を攻撃して殤公と殖の子である[[喜]](悼子)を捕え、献公をふたたび衛君の座に就かせた。
 
献公後元年([[紀元前546年|前546年]])夏、献公は喜を誅殺した。献公の弟である子鮮が晋へ逃げた。
 
献公後3年([[紀元前544年|前544年]])、呉の延陵の季子(季礼)が列国への使節として衛を通過した。5月、献公が薨去し、子の悪(あく)が立って衛君([[襄公 (衛)|襄公]])となった。