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===仏教の国教化を巡る対立と廃仏令===
[[797年]]、ティソン・デツェン王が死去。その子、{{仮リンク|ムネ・ツェンポ|zh|穆尼贊普|en|Muné Tsenpo}}{{Sfn|山口瑞鳳|1988|loc=p.27表}}王が即位。王は臣民に[[ボン教]]寺院と僧侶への布施を命じ、貧富の平均化を図るが、成功しないまま在位二年足らずで死去する。これは母妃{{仮リンク|ツェパン・サ・マギャルドンカ|en|Magyal Dongkar}}({{lang-bo|ཚེས་པང་ཟམོ་རྒྱལ་ལྡོང་སྐར}} {{lang|en|tse spang ma rgyal ldong skar}}、{{lang-zh-short|蔡邦·瑪加東格}})による毒殺とされている。[[798年]]、ムネ・ツェンポ王の死後、その弟、[[ティデ・ソンツェン]]{{Sfn|山口瑞鳳|1988|pp=27,47}}(別名:セナレク)が王位を継いだ。[[810年]]頃、ティデ・ソンツェン王は仏教に篤く、王妃,同盟小国の王子,大臣たちを召集し、子々孫々仏法を奉じ、今後、新たに娶る王妃には仏教信仰を誓約させることを規定した。さらに、僧侶の中から[[タンボ]]という僧官を選び寺院管理を任せ、高僧{{仮リンク|ニャンティンゲジエシン|en|Nyang Tingngezin Sangpo}}({{lang-bo|མྱང་ཏིང་ངེ་འཛིན་}}、{{lang-zh-short|娘·定埃增}})を[[ボジャチェンポ]]({{lang-bo|བང་ཆེན་པོ་}}、{{lang-zh-short|缽闡布}})として大論(宰相)の上に置き、国政を司らせた。
 
[[ヤアクービー]]の伝えるところによれば、吐蕃が[[トランスオクシアナ]]の中心都市[[サマルカンド]]を占領した。[[811年]]、ウイグル・唐軍による2度目の北庭都護府奪還とジュンガル盆地制圧によりカルルクがウイグルに服属、次第に旗色が悪くなる。トルキスタン(現在のアルタイ山脈パミール高原以西、アム河以北の中央アジア東部)を支配する吐蕃から[[アッバース朝]]の[[カリフ]]・[[マアムーン]]に黄金の贈り物があり、後に[[メッカ]]の[[カアバ]]に送られた<ref>Shakabpa, Tsepon W. D. Tibet: A Political History (1967), p. 48. Yale University Press, New Haven and London.</ref>。