「井上準之助」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Uhmpyon (会話 | 投稿記録)
Uhmpyon (会話 | 投稿記録)
71行目:
 
== 経歴 ==
* 明治2年([[1869年]](明治2年) 現在の[[大分県]][[日田市]]大鶴町に[[造り酒屋]]を営む井上清・ひな夫妻の五男として生まれた。生家の井上酒造<ref>2011年現在も大分県日田市で清酒「角の井」や焼酎を製造している。生家は、「清渓文庫」として保存され、9月から11月に限って一般公開されている。</ref>は、1804年創業の伝統ある酒蔵であったが、7歳の時に叔父、井上簡一の養子として生家を離れている。しかし、養父の病没で11歳で家督相続したものの、すぐに実家に復籍している<ref>杉山伸也「井上準之助研究ノート(1)」「書斎の窓」N0.610 p.39 有斐閣 2011年12月</ref>。
* 教英中学中退<ref>『日本近現代人物履歴事典』[[秦郁彦]]、[[東京大学出版会]]、2002年。</ref>、上京後、[[成立学舎]]などに通う。
* 明治21年 ([[1888年]](明治21年) [[仙台]]の[[第二高等学校 (旧制) |第二高等中学校]]予科1年次入学。[[高山樗牛]]と同級で、卒業時にはそれぞれ法科と文科の首席を分け合う<ref>『晩翠放談』[[土井晩翠]]、[[河北新報社]]、1948年</ref>。
* 明治26年([[1893年]](明治26年) [[東京大学|帝国大学]]英法科入学
* 明治29年([[1896年]](明治29年) 帝大卒業後、[[日本銀行]]入行
* 1905年(明治38年(1905年) 大阪支店長
* 1908年(明治41年(1908年) ニューヨーク駐在
* 1911年(明治44年(1911年) [[横浜正金銀行]]副頭取に就任
* 大正2年([[1913年]](大正2年  [[横浜正金銀行]][[頭取]]に就任
* 大正8年([[1919年]](大正8年)  [[日本銀行]][[総裁]]に就任
* 大正12年([[1923年]](大正12年) [[第2次山本内閣]]の[[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧|大蔵大臣]]に就任
* 1929年(昭和4年(1929年)  [[濱口内閣]]の蔵相。[[金解禁]]に尽力
* 1930年(昭和5年(1930年)  『世界不景気と我國民の覚悟』(経済知識社)を出版
* 1932年(昭和7年(1932年)2月9日 選挙運動中に[[血盟団]]員[[小沼正]]に暗殺される([[血盟団事件]])。
 
== 栄典 ==