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1956年には、「ある党員の告白」を発表し、戦後の[[日本共産党]]の暗部を描いた作品として、ジャーナリズムの寵児になりかかった。しかし、そうした暴露的な作品に対して反省し、人々の生活の実態と、社会の矛盾にたいするたたかいを描く作品を書こうと志した。そして、「現実変革をめざすリアリズム文学」をめざして、1957年に霜多・西野・金たちと[[リアリズム研究会]]を結成した。1961年には、川崎の[[日本鋼管]]の社外工のたたかいに材をとった長編「海と起重機」を発表し、長編作家としての力量を明らかにし、その後もいくつもの長編小説を書いた。1965年、[[日本民主主義文学会|日本民主主義文学同盟]]の結成に参加し、最初の事務局長を務めた。
 
その後、1971年には副議長、1983年には霜多の辞任のあと第3代の議長に就任し、1999年まで在任した。この間、1978年には北海道の開拓農民を描いた「海霧のある原野」で、1992年には自伝的な三部作、「夜明けの時」「鉄格子の彼方で」「流人島にて」で[[多喜二・百合子賞]]を2回受賞した。綿密な取材に基づく作風は、ときには作中人物を饒舌にしすぎる傾向もあったが、戦後日本のさまざまな社会事象を取り上げている。北海道の[[航空自衛隊]]のまちを描いた「スクランブル」(1964年)、山梨県の過疎地での医療運動を扱った「石楠花村日記」(1972年)、東京新宿の[[月賦百貨店|クレジットデパート]]に取材した「白い歩道橋」(1974年)、広島県の自動車工場を舞台にした「工場のなかの橋」(1982年)などが、社会の現実と矛盾とに鋭く切りこんだ作品である。また、資料にもとづいて詳細に書かれた回想「文学運動のなかで」(1978年)は、戦後の[[民主主義文学]]運動の歴史として、貴重な証言となっている。
 
山梨県北杜市に文学碑が建立されている。
 
==著書==