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'''芥川 龍之介'''(あくたがわ りゅうのすけ、[[1892年]]([[明治]]25年)[[3月1日]] - [[1927年]]([[昭和]]2年)[[7月24日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。本名同じ、号は{{読み仮名|澄江堂主人|ちょうこうどうしゅじん}}、[[俳号]]は我鬼。
 
その作品の多くは[[短編小説]]である。また、「[[芋粥]]」「[[藪の中]]」「[[地獄変]]」など、『[[今昔物語集]]』『[[宇治拾遺物語]]』といった古典から題材をとったものが多い。「[[蜘蛛の糸]]」「[[杜子春]]」といった児童向けの作品も書いている。
 
== 生涯 ==
[[東京市]][[京橋区]]入船町8丁目(現[[中央区 (東京都)|中央区]][[明石町 (東京都中央区)|明石町]])に[[牛乳]]製造販売業を営む[[新原敏三]]、フクの長男として生まれる。姉が2人いたが、長姉は、龍之介が生まれる1年前に6歳で病死している。
 
生後7ヵ月後頃に母フクが精神に異常をきたしたため<ref group="*">長女の急死が原因であったと推測されることがある。</ref>、東京市[[本所区]]小泉町(現在の[[両国 (墨田区)|墨田区両国]])にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母フキに養育される。11歳の時に母が亡くなり、翌年に叔父[[芥川道章]](フクの実兄)の[[養子縁組|養子]]となり芥川姓を名乗ることになった。[[旧家]]の[[士族]]である芥川家は[[江戸時代]]、代々[[徳川氏|徳川家]]に仕え雑用、[[茶道|茶の湯]]を担当したお[[数寄屋]][[坊主]]の家である。家中が芸術・演芸を愛好し江戸の[[文人]]的趣味が残っていた。
 
なお、龍之介の名前は、彼が[[辰]]年・辰月・辰日・辰の刻に生まれたことに由来するとわれているが、[[人の始期|出生]][[時刻]]については資料がないため不明。 [[戸籍]]上の正しい名前は「龍之介」であるが、養家である芥川家や府立三中、一高、東京大学関係の名簿類では「龍之助」になっている。彼自身は「龍之助」表記を嫌った。
 
[[1898年]](明治31年)、江東(えひがし)[[尋常小学校]]入学(現在の[[墨田区立両国小学校]])。[[東京都立両国高等学校・附属中学校|府立第三中学校]]を卒業の際「多年成績優等者」の賞状を受け、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]第一部乙類に入学。[[1910年]](明治43年)に中学の成績優秀者は無試験入学が許可される制度が施行され、龍之介はその選に入る。同期入学に[[久米正雄]]、[[松岡讓]]、[[佐野文夫]]、[[菊池寛]]、井川恭(後の[[恒藤恭]])、[[土屋文明]]、[[渋沢秀雄]]らがいた。2年生になり一高の[[学生寮#全寮制|全寮主義]]のため[[学生寮|寄宿寮]]に入るが、龍之介は順応することはなかったらしい。寮で同室となった井川は生涯の親友となる。井川は第一高等学校一覧によると1年から3年まで常に芥川の成績を上回っている。[[1913年]](大正2年)<!--一高第一部乙類を2番の成績で卒業(一高第一部乙類首席は井川恭)-->、[[東京大学|東京帝国大学]]文科大学英文学科へ進学。ちなみに当時、同学科は一学年数人のみしか合格者を出さない難関であった。
 
[[画像:Kikuchi Kan, Akutagawa Ryunosuke, and so on.jpg|thumb|right|240px|1919年(大正8年)長崎滞在中の写真。左から2番目が芥川龍之介、一番左は[[菊池寛]]<!--、奥の二人は左から[[武藤長蔵]]、[[永見徳太郎]]-->。]]
東京帝大在学中の[[1914年]](大正3年)2月に一高同期の菊池寛久米正雄らと共に[[同人誌]]『[[新思潮]]』(第3次)を刊行。まず「'''柳川隆之助'''」(隆之介と書かれている当時の書籍も存在する)の筆名で[[アナトール・フランス]]の「[[バルタザアル]]」、[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|イエーツ]]の「[[春の心臓]]」の和訳を寄稿した後、10月に『新思潮』が廃刊に至るまでに同誌上に処女小説「老年」を発表。作家活動の始まりとなった。このころ[[青山学院女子短期大学|青山女学院]]英文科卒の吉田弥生という女性と親しくなり、結婚を考えるが、芥川家の猛反対で断念する。[[1915年]](大正4年)10月、代表作の1つとなる「羅生門」を「'''芥川龍之介'''」名で『帝国文学』に発表、級友[[松岡譲]]の紹介で[[夏目漱石]]門下に入る。
 
[[1916年]](大正5年)には第4次『新思潮』(メンバーは菊池久米のほか松岡譲[[成瀬正一 (フランス文学者)|成瀬正一]]五人)を発刊したが、その創刊号に掲載した「鼻」が漱石に絶賛される。この年に東京帝国大学文科大学英文学科を20人中2番の成績で卒業。卒論は「[[ウィリアム・モリス]]研究」。同年12月、[[海軍機関学校]]英語教官を長く勤めた[[浅野和三郎]]が[[新宗教]]「[[大本]](当時は皇道大本)」に入信するため辞職する<ref>[[#神の罠|神の罠]], 36頁</ref>。そこで[[畔柳芥舟]]や[[市河三喜]]ら英文学者が浅野の後任に芥川を推薦([[内田百間]]によれば夏目漱石の口添えがあったとも)、芥川は海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として教鞭を執った<ref>[[#神の罠|神の罠]], 38.178頁</ref><ref group="*">防衛省防衛研究所図書館史料閲覧室が所蔵する海軍記録『職員進退録』に、芥川の自筆履歴書が残る。2010年現在、複写した履歴書の写真が同室に展示されている。個人情報なので、[[アジア歴史資料センター]]でのネット公開の対象外である。</ref>。そのかたわら創作に励み、翌年5月には初の短編集『羅生門』を刊行する。その後も短編作品を次々に発表し、11月には早くも第二短編集『煙草と悪魔』を発刊している。
 
[[1918年]](大正7年)の秋、懇意にしていた[[小島政二郎]](『[[三田文学]]』同人)の斡旋で[[慶應義塾大学]][[文学部]]への就職の話があり、[[履歴書]]まで出したが、実現をみなかった<ref>{{harvnb|関口|1992|p=213}}</ref>。[[1919年]](大正8年)3月、海軍機関学校の教職を辞して[[大阪毎日新聞|大阪毎日新聞社]]に入社(新聞への寄稿が仕事で出社の義務はない)、創作に専念する<ref>芥川龍之介 「[http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3753_27325.html 入社の辞]」、1919年3月。</ref>。ちなみに師の漱石も[[1907年]](明治40年)、同じように[[朝日新聞社]]に入社している。
 
[[1919年]](大正8年)[[3月12日]]、友人の[[山本喜誉司]]の姉の娘、[[芥川文|塚本文]](父[[塚本善五郎]]は[[日露戦争]]において[[敷島型戦艦|戦艦]]「[[初瀬 (戦艦)|初瀬]]」[[戦艦「初瀬」と「八島」の撃沈|沈没時]]に戦死<ref>[[#海軍兵学校物語|海軍兵学校物語]], p. 73</ref>)と[[結婚]]。[[1921年]](大正10年)2月、横須賀[[海軍大学校]]を退職し、菊池寛とともに大阪毎日の客外社員となり、[[鎌倉]]から東京府[[北豊島郡]][[滝野川町]]に戻る。同年5月には菊池と共に[[長崎]]旅行を行い、友人の日本[[画家]][[近藤浩一路]]から[[永見徳太郎]]を紹介されている。
 
1921年には海外視察員として[[中華民国の歴史|中国]]を訪れ、[[北京]]を訪れた折には[[胡適]]に会っている。胡適と[[検閲]]の問題などについて語り合いなどを行い、7月帰国。「上海遊記」以下の紀行文を著した。
 
この旅行後から次第に心身が衰え始め、[[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]、[[腸カタル]]などを病む。[[1923年]](大正12年)には[[湯河原町]]へ湯治に赴いている。作品数は減ってゆくが、この頃からいわゆる「保吉もの」など[[私小説]]的な傾向の作品が現れ、この流れは晩年の「[[歯車 (小説)|歯車]]」「[[河童 (小説)|河童]]」などへと繋がっていく。
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[[1925年]](大正14年)[[7月12日]]、三男[[芥川也寸志]]、誕生。
 
[[1925年]](大正14年)頃から[[文化学院]]文学部講師に就任。[[1926年]](大正15年)、[[胃潰瘍]]神経衰弱[[不眠症]]が高じ再び湯河原で療養。一方、妻・文は自身の弟・塚本八洲の療養のため[[鵠沼]]の実家別荘に移住。2月22日、龍之介も鵠沼の[[旅館東屋]]に滞在して妻子を呼び寄せる。7月20日には東屋の貸[[別荘]]「イ-4号」を借り、妻・文、三男・也寸志と住む。夏休みに入り、比呂志、多加志も来る。7月下旬、親友の画家[[小穴隆一]]も隣接する「イ-2号」を借りて住む。この間、小品家を借りてから』『」「鵠沼雑記、さらに『點「点鬼簿を脱稿[[堀辰雄]]、[[宇野浩二]]、小沢碧童らの訪問を受ける。また、鵠沼の開業医、富士山(ふじ たかし)に通院する。9月20日、龍之介、文、也寸志は「イ-4号」の西側にあった「柴さんの二階家」を年末まで借りて移る。ここで鵠沼を舞台にした小品悠々荘を脱稿。これは、震災前[[岸田劉生]]が住み、震災後建て直されて国木田虎雄([[国木田独歩]]の息子で詩人)が借りていた貸別荘を視察したときの経験がヒントのようで、龍之介一家が鵠沼に永住する意図があったとも考えられる。また、この間、[[斎藤茂吉]]土屋文明恒藤恭川端康成菊池寛らの訪問を受けている。[[元号]]が[[昭和]]に替わってから、妻子は[[田端 (東京都北区)|田端]]に戻り、龍之介は「イ-4号」に戻った。甥の[[葛巻義敏]]と鎌倉で年越しをしてから田端に戻るが、鵠沼の家は4月まで借りており、時折訪れている。
 
[[1927年]](昭和2年)1月、義兄の[[西川豊]](次姉の夫)が[[放火罪|放火]]と[[保険金詐欺]]の嫌疑<ref group="*">西川は弁護士であったが偽証教唆の罪で失権し、刑務所に収監され、出所後に自宅が半焼した際に直前に多額の保険金をかけていたことや家屋の2階押入の二箇所からアルコール瓶が発見されたことから保険金詐欺目的の放火が疑われていた。</ref>をかけられて鉄道[[自殺]]する。このため芥川は、西川の遺した借金や家族の面倒を見なければならなかった。4月より「物語の面白さ」を主張する[[谷崎潤一郎]]に対して、「[[文芸的な、余りに文芸的な]]」で「物語の面白さ」が小説の質を決めないと反論し、戦後の物語批判的な文壇のメインストリーム<!-- 具体的にはどういうこと?-->を予想する文学史上有名な論争を繰り広げる。この中で芥川は、「話らしい話の無い」純粋な小説の名手として[[志賀直哉]]を称揚した。この頃、芥川の秘書を勤めていた平松麻素子(父は平松福三郎・大本信者)と[[帝国ホテル]]で心中未遂事件を起こしている<ref>[[#神の罠|神の罠]], 39頁</ref>。
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== 作品の特徴 ==
[[File:Ryunosuke Akutagawa 01.jpg|thumb|150px|在りし日の芥川龍之介(1927年)]]
作品は、多く小説が多く知られている。しかし初期の作品には、西洋の文学を和訳したものも存在する(「バルタザアル」など)。英文科を出た芥川は、その文章構成の仕方も英文学的であるとわれている{{誰2|date=2010年6月}}。翻訳文学的でもある論理的に整理された簡潔・平明な筆致に特徴がある。
 
主に[[短編小説]]を書き、多くの傑作を残した。しかし、その一方で長編を物にすることはできなかった(未完小説として「[[邪宗門 (芥川龍之介)|邪宗門]]」「[[道路|路上]]」がある)。また、生活と芸術は相反するものだと考え、生活と芸術を切り離すという理想のもとに作品を執筆したといわれる。他の作家にくらべ表現やとらえ方が生々しい。晩年には志賀直哉の「話らしい話のない」心境小説を肯定し、それまでのストーリー性のある自己の文学を完全否定する(その際の作品に「[[蜃気楼 (小説)|蜃気楼]]」が挙げられる。
 
「[[杜子春]]」など古典を参考にしたものや(原話は唐の小説『杜子春伝』)、[[鈴木三重吉]]が創刊した『[[赤い鳥]]』に発表されたものなど児童向け作品も多い。一般的には、[[キリシタン]]物や[[平安時代|平安朝]]を舞台とした[[王朝]]物などに分類される。また、古典(説話文学)から構想を得た作品も多い。例えば、「[[羅生門 (小説)|羅生門]]」や「[[鼻 (芥川龍之介)|鼻]]」、「[[芋粥]]」などは『[[今昔物語集]]』を、「[[地獄変]]」などは『[[宇治拾遺物語]]』を題材としている。また[[アフォリズム]]の制作も得意としており、漢文などにも通じていた。
 
反軍的な自説を主張しており、殊に「河童」「侏儒の言葉」などの晩年の作品にはそのような傾向が強い。当時の[[軍人]]の横柄な様子を「小児のようだ」と自著で酷評したほどである。<ref>{http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1172662/15 『侏儒の言葉』芥川龍之介「小兒」「武器」1939年版(検閲による削除あり)国立国会図書館所蔵}</ref><ref>{http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1180947/16 『侏儒の言葉』芥川龍之介「小兒」「武器」1927年版(検閲による削除なし)国立国会図書館所蔵}</ref>だが、当時は軍が著作物の[[検閲]]をするのが通常であったため、この検閲によって訂正・加筆・削除を余儀なくされた箇所も作品内に多数存在する。その一方で、[[大日本帝国海軍|海軍]]に対してはある程度の好意を抱いていたようで、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]のあまりの狭量に腐っていた[[陸軍幼年学校]]教官の[[豊島与志雄]]を「良い職場があるから」と海軍機関学校に招き、豊島は[[フランス語]]嘱託教官として勤務した<ref>[[#神の罠|神の罠]], 40.177頁</ref>。[[内田百間]]も芥川の推薦で[[ドイツ語]]嘱託教官となっており、のちに内田は「竹杖記」([[1934年]](昭和9年))で芥川が講師の人選や交渉などに一定の役割を担っていたことを記している<ref>[[#神の罠|神の罠]], 178-179頁</ref>。
 
自著にて[[天照大神]]を登場させる際、別名の「大日{{lang|zh|孁}}貴」(おおひるめのむち)を用いた。これは「天照大神」という呼称では[[皇祖神]]をそのまま文中に登場させてしまうことになるため、[[太陽神]]、それも[[自然神]]という性格付けで「大日{{lang|zh|孁}}貴」を用いなければならなかったためである。
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=== 晩年 ===
自殺を考えていたのか、自分のこれまでの人生を見直したり、生死に関するを取り上げたりした作品が多く見られる。初期より晩年の方を高く評価する見解も示されている。「一塊の土」など、これまでと比べ現代を描くようになるが、台頭する[[プロレタリアート|プロレタリア]]文壇に[[ブルジョア]]作家と攻撃されることとなる。この頃から告白的自伝を書き始める(「大道寺信輔の半生」「点鬼簿」など)。晩年の代表作「河童」は、河童の世界を描くことで人間社会を痛烈に批判しており、当時の人々に問題を提起した。
 
「歯車」の内容から、晩年には自分自身の[[ドッペルゲンガー]] (Doppelgänger) を見たのではないか、また、[[片頭痛]]あるいはその前兆症状である[[閃輝暗点]]を患っていたのではないか、という説がある。
 
「水洟(みづぱな)や 鼻の先だけ 暮れ残る」と、自殺直前に書いた[[色紙]]の一句が[[辞世の句]]とされる。
 
== 自殺に関して ==
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                                     友人總代 菊池寛}}
* なお、芥川の死について、菊池寛は「芥川の事ども」という文章を残している<ref>菊池寛 「[http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/card1340.html 芥川の事ども]」、『文藝春秋』1927年9月号。</ref>。
 
== 記念館 ==
芥川はいわゆる[[田端文士村]]の一員であった。地元の[[北区 (東京都)|東京都北区]]は、芥川旧居跡地の一部を購入し「芥川龍之介記念館」(仮称)を2023年に開館する計画を2018年6月に発表した<ref>[https://mainichi.jp/articles/20180607/k00/00m/040/031000c 「芥川龍之介記念館」整備/北区が旧居跡地購入へ 書斎再現や資料展示]『毎日新聞』朝刊2018年6月7日(東京面)2018年6月7日閲覧。</ref>。
 
== その他 ==