「機関投資家」の版間の差分

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機関投資家は厳密に定義されない用語である。財団に対する寄付や政府系投資ファンドが運用する租税を、個人投資家の拠出した資金と言うには語義的に無理がある。したがって機関投資家という名詞は、個人でない組織としての投資家を広く指す。もっとも普通は、系列間で自己金融を志向する事業法人を含めない。なぜなら、機関投資家は[[社会的責任投資]]を通じて[[資本の自由化]]を達成しうるところに歴史的な特筆性があったからである。実際は貪欲な存在であった。
 
機関投資家は政府や個人投資家の持分を大量に譲り受けて企業を買収する。これがもっとも単純な'''機関化'''である。[[マーケットメイク]]をふくむ社債の買収も、[[社外取締役]]または社外監査役を派遣するきっかけとなるので機関化である。ここで問題とするのは小規模単発の機関化もので社会問題とならない。機関投資家は、自身が保有する資産の流動性を確保するために多くの手段を講じてきた。本来の[[自由通貨]]を排斥しながら[[管理通貨制度]]を開拓し、[[変動為替相場制]]と[[公開市場操作]]も導入した。各国証券取引市場をふくむ[[シャドー・バンキング・システム]]を構築した。機関投資家は世界の流動性を[[独占]]し、各国の政治・経済に干渉している<ref group=注釈>ユーロ危機への対応として[[マリオ・ドラギ]]はOMT([[:en:Outright Monetary Transactions|Outright Monetary Transactions]])という欧州レベルの財政改革を断行した。</ref>。機関投資家は[[ユーロクリア]]や[[クリアストリーム]]を中心として相互に連携し、個々の企業やナショナリズムから見た[[利益相反]]を既得権化している。
 
== 生保と戦争 ==
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セカンダリー・バンキングは機関投資家の勝利であって、アメリカン・ナショナリズムのそれではなかった。
 
1932年、アメリカで[[ボーナスアーミー]]が反乱した。[[世界恐慌]]に窮した軍人が、法律で強制的に預託させられている年金を前倒しで支払うよう求めた事件であった。年金は機関投資家である。当時のアメリカ資本は[[ヤング案]]成立前から[[ヴァイマル共和政]]に貸し込んでいた。連合国に対しても[[世界恐慌#ニューディール始末|トマス附属書]]で債権回収の手を緩めていた。このトマス附属書は、[[JPモルガン]]のラッセル・レフィングウェル([[:en:Russell Cornell Leffingwell|Russell Cornell Leffingwell]])から賞賛された<ref>William E. Leuchtenburg, ''Franklin D. Roosevelt and the New Deal'', Harper & Row, 1963, pp.232-3.</ref>。[[IGファルベン]]と[[デュポン]]その他大勢の[[カルテル]]が十分に儲けてくれたら、賠償金で払い戻せるという計画だったのだろう。しかしライト・パットマン([[:en:Wright Patman|Wright Patman]])は財閥の[[独占]]と見抜いて、払い戻しを議会に働きかけた。その彼が1966-68年に膨大なデータを集めて財閥[[ニューヨーク銀行|合同運用信託]]・保険・投信の独占経済をレポートしていたときである。もはや1940年投資会社法([[:en:Investment Company Act of 1940|Investment Company Act of 1940]])では独占を阻止できないと考えた議会が、独占事実の数々を示して機関投資家を厳しく批判し法改正を検討していた<ref>Investment company act amendments of 1967. : Hearings, Ninetieth Congress, first session, on H.R. 9510, H.R. 9511. Part1. p.798. ([https://catalog.hathitrust.org/Record/008466728 Read] by [[ハーティトラスト|HathiTrust]])</ref>。[[ロバート・ケネディ]]が射殺されて改正案は流れてしまい、アメリカの会社規制はディスクロージャー主体に落ち着いてしまった。以来、アメリカ経済は機関化の一途をたどった<ref>鎌田信男 [https://ci.nii.ac.jp/naid/110008606581 米国金融市場における機関化の帰結と日本への示唆] 現代経営経済研究 2(2), 35-61, 2008-03-31</ref>。
 
== MFと証券化 ==
1950年代にアメリカ労組がペンション・ドライブを展開したことで企業年金の普及が進んだ{{Refnest|group=注釈|[[ピーター・ドラッカー]]が「年金基金社会主義(pension fund socialism)」を見出した時代であった<ref>''The New Society: The Anatomy of the Industrial Order'', Harper & Brothers, 1950.</ref>。}}。セカンダリー・バンキング商戦が地球規模に展開される中で、[[ミューチュアル・ファンド]](MF)と年金基金は大衆投資家の資金を一流企業(しばしば[[多国籍企業]])の優良株を中心に長期保有で運用した。1952-1966年の株式投資において、[[キャピタルゲイン]]は年平均7.21%増加した。総合利回りでは社債を大きく上回って14.50%を記録していた。商戦が[[ユーロ債]]市場の台頭で収束してゆくと、信用逼迫で商業銀行は大企業へ直接金融を要請するようになった。1970年代末にかけてのスタグフレーションにおいて、機関投資家は短期売買をして小幅なキャピタルゲインを吸い取るようになった。1967-1974年の全米株式取引に占めるMFの割合は平均20.5%に達し、全機関投資家では実に44.0%を占めた。政治は手数料論争の劇場と化した。機関投資家は[[ニューヨーク証券取引所]]から疎開した。残されたNY市場の流動性と厚みは失われた。そっちこっちの取引所で上場銘柄の価格が分裂した。そこで1975年、[[証券取引委員会]]がNY市場の固定手数料制を廃止、併せて証券改革法により全米市場システム([[:en:National Market System|National Market System]])が導入された。こうしてNY市場は機関投資家に陥落された。1980年代は[[M&A]]に[[レバレッジド・バイアウト]](LBO)が利用されたが、MFはLBOのために発行された[[ジャンク債]]を買って、受託者のために保有株を売り飛ばした。これは投信だけのパターンではなかった。1988年、発行済みジャンク債の75%がMFと保険会社および年金基金が保有していたのである。対照的に不憫な機関投資家もいた。[[証券化]]の道具にされていた[[貯蓄貸付組合]]である。1989年[[整理信託公社]]が設立された。この公社が性懲りも無く証券化で組合の不良債権処理をやってのけた。<ref>柴田徳太郎 『世界経済危機とその後の世界』 日本経済評論社 2016年 112-116、118頁</ref>
 
== 執事の仮面 ==
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== 州立銀行いじめ ==
[[ドイツ再統一]]後の1990年代から空前のM&Aブーム、株式ブーム、そして証券化ブームが起こり、[[ドイツ銀行]]がモルガン・グレンフェルとバンカーズ・トラストを買収したり、[[ドレスナー銀行]]がクラインワートを買収したりするようなことになった。業容の拡大先はニューヨークと似たり寄ったりで、すなわちM&A仲介や[[証券化]]という[[投資銀行]]業務と、それから投信というロールオーバーを展開したのである。ここで証券化というのは国債価格の安定性を基礎とする部分が大きいのであるが、そこで機関投資家は財政に干渉するのである。2005年7月18日、[[欧州委員会]]とその諮問委員会がドイツへ圧力をかけて公的債務保証を廃止させた。この保証は州立銀行([[:de:Landesbank|Landesbank]])に対して無制限に行われていた。州立銀行保有資産は国内金融機関総計の20%を占めていた。追い詰められた州立銀行は、証券化商品を買い込むような投資銀行業務をやったり、中東欧の機関化に手を貸したりするようになった。完全に大手民間銀行の後追いだった。世界金融危機で巨大な損失を計上した金融機関は、ヒポ・レアル・エステート([[:de:Hypo Real Estate|HRE]])や[[コメルツ銀行]]だけでなかった。[[預金供託金庫]]と提携していた{{仮リンク|バイエルン州立銀行|en|BayernLB|de| BayernLB }}もである。[[HSHノルトバンク]]も取りざたされた。これら大規模州立銀行は、金融市場安定化基金([[:en:SoFFin|SoFFin]])が膨大な公的資金を投入して救済した。欧州全銀は危機までに5100億ドルを資産担保コマーシャルペーパー導管に投資していたが、そのうちドイツ勢は1/4を占めていた。しかもその大部分が[[サブプライムローン]]市場に関するものであった。危機の直前、ドイツ銀行、[[ゴールドマン・サックス]]、[[モルガン・スタンレー]]、[[リーマン・ブラザーズ]]の4行は、サブプライムローン関係の[[債務担保証券]]をドイツの州立銀行に売りつけて難を逃れた。<ref>柴田徳太郎 『世界経済危機とその後の世界』 日本経済評論社 2016年 156-160頁</ref>{{Refnest|group=注釈|ユーロ危機への対応をめぐっては2012年10月8日に欧州安定メカニズム([[:en:European Stability Mechanism|European Stability Mechanism]])が発足した。この国際機関には銀行資格を与えて信用創造機能を付与する議論もあったが、ドイツなどの反対で実現しなかった。12月13日、欧州サミットが催された。[[欧州中央銀行]]が直に監督する銀行は資産300億ユーロ以上のものだけになった。国債の償還およびユーロ債発行における財政統合は見送られた。これらの結論はドイツ政府の意見を尊重したものであった。<ref>長部重康 「ユーロ危機からの脱出戦略 OMTとEUニューディール」 経済志林 2013年3月15日発行 27-28頁</ref>}}
 
== ブレトンウッズ2.0 ==
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== 財団という脇役 ==
財団は往々にして企業支配の道具となっている<ref name=baum />。特許プールまで行う([[:en:Wisconsin Alumni Research Foundation|Wisconsin Alumni Research Foundation]])。特許は1980年のバイ・ドール法([[:en:Bayh–Dole Act|Bayh–Dole Act]])により大学基金等にもプールできるようになった。[[証券化]]により特別目的信託会社へ集約することも可能である。バイ・ドール法も特別目的信託会社も、現在の日本で制度採用されている
 
ライト・パットマンが財団を取り上げなかったわけではないが<ref group=注釈>パットマンは1963年まで下院小企業委員会([[:en:United States House Committee on Small Business|House Small Business Committee]])の議長として、財団の量的な影響力を調査実証した。</ref>、[[フォード財団]]のような特定の産業と結びついたものはその保有する銘柄が相応の範囲であった。[[ノーベル財団]]のような元々「職種」の広いタイプであれば時流に沿うこともできた。機関投資家の中で財団は、大衆貯蓄からの資本集中が限定的で、なおかつ資本関係が明瞭であった。しかし、判例は寄付態様を全然制限していない<ref name=baum />。歳入法の目的制限による運用差し止めを司法長官が行うことはめったにない<ref name=baum />。