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[[1906年]]、23歳でフランス・インターフェデラル・コミッティー(CFI)の事務局長に就任した。CFIは[[1919年]]に[[フランスサッカー連盟]](FFF)となるが、彼はひきつづき事務局長として留まった。
 
[[1920年]]に[[国際サッカー連盟]](FIFA)に引き抜かれ、競技規則に関する諮問委員となった。[[1924年]]から[[1928年]]まで、ルール制定などを行う[[国際サッカー評議会]](IFAB)にFIFA代表として参加。この頃、[[ジュール・リメ]]によって[
r[FIFAワールドカップ]]の開催が提案されると、[[1927年]]アンリ・ドロネーはワールドカップ実現の第一歩としてヨーロッパ選手権の開催を提案。しかし、ワールドカップの初開催が決定したあと、FIFAはその準備に追われ彼の提案は見送りになった。
 
[[1954年]]、[[欧州サッカー連盟]](UEFA)が創立。初代事務局長となったアンリ・ドロネーはヨーロッパ選手権を実現するべく奔走する。ところが翌年彼は病にかかり、欧州選手権の実現を見ることなくこの世を去ってしまった。彼の意志をついで息子の[[ピエール・ドロネー]]が2代目のUEFA事務局長に就任。とうとう[[1960年]]に初めての[[1960 欧州ネイションズカップ|欧州ネイションズカップ]]が[[フランス]]で開催され、この大会の実現に尽力した彼の功績をたたえて優勝トロフィーは'''アンリ・ドロネー杯'''と名付けられた。