「ルイ14世 (フランス王)」の版間の差分

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ルイ13世時代の小城館を改築する第1期工事は1664年に完了し、この際に盛大な祝典『魔法の島の歓楽』が、またアーヘンの和約が結ばれた1668年には戦勝を記念する祝典『ヴェルサイユの国王陛下のディヴェルティスマン』が催された<ref>[[#中島 2008|中島 2008]],pp.44-45.</ref>。この城館がなお手狭であることが判明したため1668年から第2期工事が着工され、1670年にル・ヴォーが死去したためフランソワ・ドベルが建築を引き継いだ<ref>[[#中島 2008|中島 2008]],pp.36-37;[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],p.131.</ref>。この工事ではルイ13世の小城館を取り囲む形で大規模な新城館が建築される「包囲建築」と呼ばれる形式のさらなる増築が行われた<ref>[[#中島 2008|中島 2008]],pp.37-38.</ref>。1674年にこの新城館でルイ14世治世最大の祝典である『1674年のフランシュ=コンテ征服からの還御の際に国王陛下が全宮廷に対して下賜されたディヴェルティスマン』が催された<ref>[[#中島 2008|中島 2008]],pp.46-49.</ref>。
 
第3期工事は1678年に始まり建築は[[ジュール・アルドゥアン=マンサール|マンサール]]があたり、新たに「{{仮リンク|鏡の間 (ヴェルサイユ宮殿)|label=鏡の間|en|Hall of Mirrors (Palace of Versailles)}}」と「大使たちの階段」が造営され、庭園の一部をル・ヴォーのバロック式建築から古典様式に改めさせている<ref>[[#中島 2008|中島 2008]],pp.90-92;[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],p.133.</ref>。この工事中の1682年[[5月6日]]にルイ14世は正式に王宮をヴェルサイユに移した。これまでルイ14世の宮廷はフランス王家の「移動する宮廷」の伝統に従い、[[フォンテーヌブロー|フォンテーヌブロー宮]](1661年)、[[ルーヴル宮殿|ルーヴル宮]](1662年 - 1666年)や[[サン=ジェルマン=アン=レー]](1666年 - 1673年、1676年、1678年 - 1681年)などを転々としてきたが、以降はヴェルサイユ宮に固定されることになる<ref>[[#ベルセ 2008|ベルセ 2008]],pp.9-11;[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],p.133;[[#林田 1996|林田 1996]],p.205.</ref>。ルイ14世はル・ノートルの手がけた庭園を愛し、『ヴェルサイユの庭園概説』の幾つかの版は国王自身の執筆によるものと考えられている<ref>[[#中島 2008|中島 2008]],p.82.</ref><ref>{{cite web|title=ルイ14世、ヴェルサイユの庭園の案内役 - ヴェルサイユ宮殿|url=http://jp.chateauversailles.fr/index.php?option=com_cdvfiche&amp;idf=8D5DDDE3-5F82-B011-F5FB-AC37F568F455|publisher=[[ヴェルサイユ宮殿美術館]]国有地公団|author=|page=|accessdate=2013年2月9日}}</ref>。ルイ14世は庭園の中でも噴水の美を重要視しており、このために彼は「マルリーの機械」と呼ばれる大がかりな揚水装置を建設させている<ref>[[#中島 2008|中島 2008]],pp.82-89.</ref>。この宮殿の拡張工事はルイ14世の晩年まで続けられ、その費用は8200万[[リーヴル]]の巨費に昇った<ref name=hasegawa134/>。
 
ルイ14世は貴族たちをヴェルサイユ宮殿内またはその周辺に住まわせ、宮殿内には多い時には廷臣のほか官吏、外国使節、請願者、出入り業者を含めて1万人もの人々がひしめいていた<ref>[[#ベルセ 2008|ベルセ 2008]],pp.11-12;[[#林田 1996|林田 1996]],p.231.</ref><ref>{{cite web|title=宮廷人 - ヴェルサイユ宮殿|url=http://jp.chateauversailles.fr/jp/history-/versailles-during-the-centuries/living-at-the-court/|publisher=ヴェルサイユ宮殿美術館国有地公団|author=|page=|accessdate=2013年2月9日}}</ref>。ルイ14世はこの宮廷での序列や礼儀作法を厳格に定めて貴族たちに従わせるとともに、彼らに国王から下賜される栄誉や年金獲得を宮廷内で競わせることによって宮殿への常駐を余儀なくさせて長期間国王の監視の下に置き、地方の領地から切り離すことによって、貴族達を強く統制することに成功した<ref>[[#長谷川 2009|長谷川 2009]],pp.269-270.</ref>。彼はこれら恒常的な賓客達を贅沢な宴会や遊興でもてなしたが、これは専制統治の重要な要素であった<ref>[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],pp.131-134.</ref>。