「三島由紀夫」の版間の差分

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その際、同誌の読者圏が全国に広がっていたため、息子の文学活動を反対する平岡梓の反応など、まだ16歳の公威の将来を案じ、本名「平岡公威」でなく、[[ペンネーム|筆名]]を使わせることとなった<ref name="shimi"/>。清水は、「今しばらく平岡公威の実名を伏せて、その成長を静かに見守っていたい ――というのが、期せずして一致した同人の意向であった」と、合宿会議を回想している<ref name="shimi"/>。筆名を考えている時、清水たちの脳裏に「[[三島駅|三島]]」を通ってきたことと、[[富士山|富士]]の白[[雪]]を見て「ゆきお」が思い浮かんできた<ref name="shimi"/>。
 
帰京後、清水が筆名使用を提案すると、公威は当初本名を主張したが受け入れ、「[[伊藤左千夫]](いとうさちお)」のような[[万葉仮名|万葉]]風の名を希望した<ref name="pname">「私のペンネーム」(東京新聞夕刊 1953年11月8日号)。{{Harvnb|28巻|2003|p=210}}</ref><ref name="ato4hana">「あとがき――『花ざかりの森』」(『三島由紀夫作品集4』新潮社、1953年11月)。{{Harvnb|28巻|2003|pp=112-115}}</ref>。結局「由紀雄」とし、「雄」の字が重すぎるという清水の助言で、「'''三島由紀夫'''」となった<ref name="shimi"/><ref name="pname"/><ref name="ato4hana"/>{{refnest|group="注釈"|[[2016年]](平成28年)9月に、三島直筆の「花ざかりの森」元原稿が[[熊本市]]の蓮田晶一([[蓮田善明]]の長男。2016年8月に死去)の家で見つかった<ref name="asahi">「ペンネーム『三島』生まれた臨場感」([[朝日新聞]] 2016年11月12日号・34面)</ref><ref name="male28">[httphttps://melma.com/backnumber_149567_6447521/ 「花ざかりの森」熊本で発見 三島デビュー作直筆原稿「作家誕生語る一級資料」(三島由紀夫の総合研究、2016年11月13日・通巻第996号)]</ref>。冒頭の著名は「平岡公威」を2本線で消して「三島由紀夫」に書き直してあり、ペンネーム誕生の経緯を物語る貴重な資料発見となった<ref name="asahi"/><ref name="male28"/>。}}。「由紀」は、[[大嘗祭]]の神事に用いる新穀を奉るため選ばれた2つの国郡のうちの第1のものを指す「由紀」(斎忌、悠紀、由基)の字に因んで付けられた<ref>[[井上隆史 (国文学者)|井上隆史]]「ペンネームの由来」({{Harvnb|太陽|2010|p=19}})</ref>{{refnest|group="注釈"|ちなみに三島自身はペンネームの由来について次のように語っている。
{{Quotation|学生として本名ではまづいといふ先生の意見で、ペンネームを作ることになつた。私は[[伊藤左千夫]]といふやうな、[[万葉仮名|万葉]]風の蒼古な名前がほしかつたが、結局、由紀雄と落ち着き、先生は夫のはうがいいと言はれて、さう改めた。それから何か座りのいい姓をと考へて、先生の机上にあつた何かの名簿を繰つて、三島といふのを探し出したのである。|三島由紀夫「私のペンネーム」<ref name="pname"/>}}
なお、父親の梓は、ペンネームの由来について、倅が[[電話帳]]で適当に開いた頁が「三島」だったとしている<ref name="azusa3"/>。}}。
各地で日本軍が勝利を重ねていた同年4月、大東亜戦争開戦の静かな感動を厳かに綴った詩「大詔」を『文藝文化』に発表<ref>「大詔」(文藝文化 1942年4月号)。{{Harvnb|37巻|2004|pp=708-709}}</ref>。同年5月23日、文芸部委員長に選出された公威は、7月1日に[[東文彦]]や[[徳川義恭]]([[帝国大学|帝大]]文学部に進学)と共に同人誌『'''赤繪'''』を創刊し、「[[苧菟と瑪耶]]」を掲載した<ref name="s-nen2"/>。誌名の由来は[[志賀直哉]]の『万暦赤繪』にあやかって付けられた<ref>[[高橋新太郎]]「赤絵」({{Harvnb|事典|2000|p=441}})</ref>。公威は彼らとの友情を深め、病床の東とはさらに文通を重ねた<ref name="fumijo">「序」(1970年10月25日執筆。『東文彦作品集』[[講談社]]、1971年3月。[[講談社文芸文庫]]、2007年4月)。{{Harvnb|36巻|2003|pp=363-368}}</ref>{{refnest|group="注釈"|三島は『東文彦作品集』の序文で東との交友を振り返りつつ、当時を〈文学に集中できたむしろ[[アリストテレス]]的静的な時代〉であったと語っている<ref name="fumijo"/>。}}。同年8月26日、祖父・[[平岡定太郎|定太郎]]が死亡(没年齢79歳)<ref name="etsu2"/>。公威は詩「挽歌一篇」を作った<ref>「挽歌一篇」(昭和17年8月26日付)。{{Harvnb|37巻|2004|pp=710-711}}</ref>。
 
同年11月、学習院の講演依頼のため、清水文雄に連れられて[[保田與重郎]]と対面し、以後何度か訪問する<ref>「東文彦宛ての書簡」(昭和17年11月15日付)。{{Harvnb|十代|2002|pp=136-141}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=129-133}}</ref><ref name="h-reki"/><ref name="shigure">[[保田與重郎]]「天の時雨」({{Harvnb|臨時|1971}})。{{Harvnb|福田|1996|pp=167-192}}</ref>。公威は保田與重郎、蓮田善明、[[伊東静雄]]ら日本浪曼派の影響の下で、詩や小説、随筆を同人誌『文藝文化』に発表し、特に蓮田の説く「[[皇国]]思想」「[[大和魂|やまとごころ]]」「[[みやび]]」の心に感銘した<ref>「『文芸文化』のころ」(『昭和批評大系2 昭和10年代』月報 番町書房、1968年1月)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=644-646}}</ref>。公威が「みのもの月」、随筆「[[伊勢物語]]のこと」を掲載した昭和17年11月号には、蓮田が「[[神風連の乱|神風連]]のこころ」と題した一文を掲載。これは蓮田にとって[[熊本県立済々黌高等学校|熊本済々黌]]の数年先輩にあたる[[森本忠]]が書いた『神風連のこころ』(国民評論社、1942年)の書評で、この本を読んでいた公威は後年、神風連の地・[[熊本市|熊本]]を1966年(昭和41年)8月に訪れ、森本忠([[熊本商科大学]]教授)と会うことになる<ref name="araki">{{Harvnb|荒木|1971}}。[httphttps://melma.com/backnumber_149567_3656468/ 西法太郎「三島由紀夫と神風連(壱)」(三島由紀夫の総合研究、2007年5月7日・通巻第143号)]</ref><ref name="uchi2">「第二章 学習院という湖」({{Harvnb|島内|2010|pp=57-92}})</ref>。
 
ちなみに、三島の死後[[村松剛]]が[[平岡倭文重|倭文重]]から聞いた話として、三島が中等科卒業前に[[第一高等学校 (旧制)|一高]]の入試を受験し不合格となっていたという説もあるが<ref name="mura01">「序章――雅の棘」({{Harvnb|村松|1990|pp=9-27}})</ref>、三島が中等科5年時の9月25日付の[[東文彦]]宛の書簡には、高等科は文科乙類(独語)にすると伝える記述があり、三島本人はそのまま文芸部の基盤が形成されていた学習院の高等科へ進む意思であったことが示されている<ref>「東文彦宛ての書簡」(昭和16年9月25日付)。{{Harvnb|十代|2002|pp=80-82}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=97-98}}</ref><ref name="mura01"/>。なお、三島が一高を受験したかどうかは、母・倭文重の証言だけで事実関係が不明なため、全集の年譜にも補足として、「学習院在学中には他校の受験はできなかったという説もある」と付記されている<ref>「年譜」(昭和17年4月4日)({{Harvnb|42巻|2005|p=74}})</ref>。
また、『仮面の告白』や『金閣寺』も英訳出版されるなど、海外での三島の知名度も上がった時期で、「世界の文豪」の1人として1963年(昭和38年)12月17日の[[スウェーデン]]の有力紙『DAGENUS NYHETER』に取り挙げられ、翌1964年(昭和39年)5月には『宴のあと』がフォルメントール国際文学賞で2位となり<ref>「年譜」(昭和39年5月4日)({{Harvnb|42巻|2005|p=264}})</ref>、『金閣寺』も第4回国際文学賞で第2位となった<ref name="s-nen5"/>。[[国連事務総長]]だった[[ダグ・ハマーショルド]]も1961年(昭和36年)に赴任先で事故死する直前に『金閣寺』を読了し、[[ノーベル財団]]委員宛ての手紙で大絶賛した<ref name="kee-k">「川端康成」({{Harvnb|キーン|2005|pp=}})</ref><ref name="chro34">「34 葬儀委員長川端康成とノーベル文学賞」({{Harvnb|クロ|2007|pp=260-266}})</ref><ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/shitamachi_nikki/list/CK2014040902100024.html ノーベル賞と三島、川端の死【ドナルド・キーンの東京下町日記】](東京新聞、2013年10月6日)</ref>。
 
なお、1963年、1964年、1965年度の[[ノーベル文学賞]]の有力候補の中に[[川端康成]]、[[谷崎潤一郎]]、[[西脇順三郎]]と共に三島が入っていたことが2014年(平成26年)、2015年(平成27年)、2016年(平成28年)に開示され、1963年度で三島は「技巧的な才能」が注目され受賞に非常に近い位置にいたことが明らかとなった<ref>「三島ノーベル賞目前だった」(読売新聞 2014年1月4日号)。[http://img.47news.jp/PN/201401/PN2014010301001094.-.-.CI0003.jpg]</ref><ref name="gai14"/><ref>[httphttps://ci.nii.ac.jp/naid/110009851179 大木ひさよ「川端康成とノーベル文学賞:スウェーデンアカデミー所蔵の選考資料をめぐって」]([[佛教大学]]・京都語文 21 2014年11月)pp.42-64</ref>。しかし1966年度の候補者には三島の名はなかった<ref>[https://web.archive.org/web/20170105105120/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170103/k10010827641000.html 川端康成 ノーベル文学賞受賞2年前の選考で高評価](NHK(2017年1月5日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - NHK News Web、2017年1月3日</ref>。
 
三島が初めて候補者に名を連ねた1963年度の選考において委員会から日本の作家の評価を求められていた[[ドナルド・キーン]]は、実績と年齢順([[年功序列]])を意識し日本社会に配慮しながら、谷崎、川端、三島の順で当時推薦したが、本心では三島が現役の作家で最も優れていると思っていたことを情報開示後に明かしている<ref name="nenko">[https://web.archive.org/web/20151009001440/http://www9.nhk.or.jp/nw9/marugoto/2015/03/0331.html 特集まるごと「ノーベル文学賞 明らかになる“秘話”」](2015年10月9日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - NHK News Web、2015年3月31日。</ref>。ちなみに、[[1961年]](昭和36年)5月に川端が三島にノーベル賞推薦文を依頼し、三島が推薦文を書いていたこともある<ref>「川端康成宛ての書簡」(昭和36年5月30日付)。{{Harvnb|川端書簡|2000|pp=150-151}}、{{Harvnb|38巻|2004|p=294}}</ref><ref>三島由紀夫「1961年度ノーベル文学賞に川端康成氏を推薦する」(訳・佐伯彰一)({{Harvnb|川端書簡|2000|pp=238-239}})</ref>{{refnest|group="注釈"|実際1961年度に川端康成が受賞する可能性もあったことも明らかになっている<ref>[https://web.archive.org/web/20130310191315/http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/700/130247.html 川端康成 ノーベル賞選考で新資料](2013年3月10日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - NHK「かぶん」ブログ・NHK科学文化部、2012年9月4日。</ref>。}}。その3年前の1958年(昭和33年)度には、谷崎潤一郎の推薦文も三島が書いていた<ref name="asa2009">「http://www.asahi.com/special/nobel/TKY200909220258.html 谷崎潤一郎、58年ノーベル賞候補 三島由紀夫が推薦状」(朝日新聞DIGITAL、2009年9月23日)</ref>。
 
=== 文と武の世界へ――奔馬 ===
『英霊の聲』を発表した[[1966年]](昭和41年)6月、三島は[[奈良県]]の[[率川神社]]の三枝祭(百合祭)を見学し、長編大作の第二巻となる連載「[[奔馬 (小説)|奔馬]]」の取材を始めた。8月下旬からは[[大神神社]]に赴き、[[三輪山]]三光の滝に打たれ[[座禅]]した後、色紙に「清明」と揮毫<ref>「回想の三輪明神」({{Harvnb|悼友|1973|pp=36-49}})</ref><ref name="ando4">「第四章 憂国の黙契」({{Harvnb|生涯|1998|pp=233-331}})</ref>{{refnest|group="注釈"|大神神社境内には、この時三島が揮毫した「清明」が刻まれた記念碑がある<ref>[httphttps://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/295dd3872195ee478613e5c5e73f5f0b 名作&風景(1) 三島由紀夫『奔馬』と大神神社] 2015年10月18日閲覧</ref>。}}。その後[[広島県]]を訪れ、恩師の[[清水文雄]]らに会い、[[江田島]]の[[海上自衛隊第一術科学校]]を見学し[[特別攻撃隊|特攻隊]]員の遺書を読んだ<ref>「習字の伝承」(婦人生活 1968年1月号)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=612-614}}</ref><ref name="s-nen6"/>。
 
清水らに見送られ[[熊本県]]に到着した三島は、[[荒木精之]]らに迎られ、[[蓮田善明]]未亡人と森本忠(蓮田の先輩)と面会し、[[神風連の乱|神風連]]のゆかりの地([[新開大神宮]]、[[桜山神社 (熊本市)|桜山神社]]など)を取材して10万円の[[日本刀]]を購入した<ref name="araki"/><ref name="uchi2"/><ref name="gai19">「十九 佩刀『関ノ孫六』の由来」({{Harvnb|岡山|2014|pp=103-108}})</ref>。この旅の前、三島は清水宛てに、〈[[天皇]]の[[神聖]]は、[[伊藤博文]]の[[大日本帝国憲法|憲法]]にはじまるといふ[[亀井勝一郎]]説を、[[山本健吉]]氏まで信じてゐるのは情けないことです。それで一そう神風連に興味を持ちました。神風連には、一番本質的な何かがある、と予感してゐます〉と綴った<ref name="S410610"/>。
人質となった益田兼利総監は裁判の公判で、「被告たちに憎いという気持ちは当時からなかった」とし、「国を思い、自衛隊を思い、あれほどのことをやった純粋な国を思う心は、個人としては買ってあげたい。憎いという気持ちがないのは、純粋な気持ちを持っておられたからと思う」と語った<ref>「国を思う純粋な心に ■第五回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=109-116}})</ref>。
 
なお、川端康成の養女・政子の夫・[[川端香男里]]によると、三島が川端康成に宛てた手紙の最後のものは、11月4日から6日の間に自衛隊[[富士学校]][[滝ヶ原駐屯地]]から出された鉛筆書きのもので、この手紙は川端康成によって焼却されたとされる<ref name="kaori">[[川端香男里]]・佐伯彰一の対談「恐るべき計画家・三島由紀夫」({{Harvnb|川端書簡|2000|pp=205-237}}後記)</ref>。香男里によると、「文章に乱れがあり、これをとっておくと本人の名誉にならないからすぐに焼却してしまった」とされる<ref name="kaori"/>。しかし、これは川端の名誉にならないから焼却されたのではないかという見方もある<ref name="ando4"/><ref>[httphttps://melma.com/backnumber_149567_5540801/ 西法太郎「三島由紀夫と川端康成(補遺2)」(三島由紀夫の総合研究、2012年4月17日・通巻第636号)]</ref>{{refnest|group="注釈"|1972年(昭和47年)4月に川端康成も自殺するが、その数日前、三島の父・梓は川端からの長文の手紙をもらったという。梓は、「川端さんのご性格のまったく意外な点が実によくあらわれていて興味をひかれました」とし、[[家宝]]として永く保存していくと語った<ref name="botsu4"/>。}}。
 
三島と森田の[[命日|忌日]]には、「三島由紀夫研究会」による追悼慰霊祭「[[憂国忌]]」が毎年行われている。三島事件に関わり4年の実刑判決を受けた楯の会3人([[小賀正義]]、[[小川正洋]]、[[古賀浩靖]])が仮出所した翌年の[[1975年]](昭和50年)以降には、元楯の会会員による慰霊祭も[[神道]]形式で毎年行われている<ref name="higu4">「第四章 その時、そしてこれから」({{Harvnb|火群|2005|pp=111-188}})</ref>。
 
1999年(平成11年)7月3日には、三島の著作や資料を保管する「[[三島由紀夫文学館]]」が開館された。2008年(平成20年)3月1日には、[[富山県]][[富山市]]向新庄町2丁目4番65号に「隠し文学館 花ざかりの森」が開館された<ref>[http://www.3ihanazakari.com/indexaisatsu.html 隠し文学館 花ざかりの森]</ref>。
 
== 文学碑・追悼碑 ==
{{Quotation|自国の正しい健軍の本義を持つ軍隊のみが、空間的時間的に国家を保持し、これを主体的に防衛しうるのである。現自衛隊が、第九条の制約の下に、このやうな軍隊に成育しえないことには、日本のもつとも危険な状況が孕まれてゐることが銘記されねばならない。憲法改正は喫緊の問題であり、決して将来の僥倖を待つて解決をはかるべき問題ではない。なぜならそれまでは、自衛隊は、「国を守る」といふことの本義に決して到達せず、この混迷を残したまま、徒らに物理的軍事力のみを増強して、つひにもつとも大切なその[[魂]]を失ふことになりかねないからである。|三島由紀夫「問題提起」<ref name="teiki2"/>}}
 
また1970年(昭和45年)2月19日に行われた[[ジョン・ベスター]]との対談(テープが「放送禁止」としてTBS局内で2013年まで放擲され2017年に公開されたもの)でも、きちんと法改正せずに、〈憲法違反〉を続けることで人間のモラルが蝕まれるとし、平和憲法は〈偽善のもと〉、〈憲法は、日本人に死ねと言っているんですよ〉と語っている<ref name="mai2017">[httphttps://mainichi.jp/articles/20170112/k00/00e/040/191000c 三島由紀夫 自決9カ月前の肉声…TBSに録音テープ](毎日新聞、2017年1月12日)</ref><ref>[httphttps://www.sankei.com/entertainments/news/170112/ent1701120019-n1.html 三島由紀夫「平和憲法は偽善。憲法は、日本人に死ねと言っている」TBSが未公開テープの一部を公開・放送](産経ニュース、2017年1月12日)</ref><ref name="gun2017">「新発見 自決九ヵ月前の未公開インタビュー――三島由紀夫 素顔の告白」({{Harvnb|群像|2017|pp=119-137}})</ref><ref name="koku">「三島由紀夫未公開インタビュー」({{Harvnb|告白|2017|pp=5-74}})</ref>。
 
=== 自衛隊論 ===
{{Quotation|諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。(中略)国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての[[ワシントン海軍軍縮条約|五・五・三の不平等条約]]の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切る[[将軍|ジェネラル]]一人、自衛隊からは出なかつた。[[沖縄返還]]とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、[[左派]]のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの[[傭兵]]として終るであらう。|三島由紀夫「檄」<ref name="geki"/>}}
 
この警告について[[西尾幹二]]は、三島が「明らかに核の脅威を及ぼしてくる外敵」を意識し、このままでよいのかと問いかけているとし<ref name="nishio">[[西尾幹二]]「三島由紀夫の死と日本の核武装」([[WiLL (雑誌)|WILL]] 2011年2月号)[https://archive.is/20120909172909/http://wwwssl.nishiokanji.jp/blog/wp-trackback.php?p=1034 西尾幹二のインターネット日録 「三島由紀夫の自決と日本の核武装(その五)」](2012年9月9日時点の[[archive.is|アーカイブ]])</ref>、三島自決の6年前に[[中華人民共和国|中国]]が[[核実験]]に成功し、核保有の5大国として核停止条約(NPT)で特権的位置を占め、三島自決の1970年(昭和45年)に中国が[[国際連合|国連]]に加盟し[[常任理事国]]となったことに触れながら、〈国家百年の大計にかかはる〉と三島が言った日本のNPTの署名(核武装の放棄)を政府が決断したのが、同年の2月3日だった当時の時代背景を説明している<ref name="nishio"/>。
 
そして、三島が〈あと二年の内〉と言った意味は、この2年の期間に日本政府とアメリカの間で沖縄返還を巡り、日本の恒久的な核武装放棄を要望するアメリカと中国の思惑などの準備と工作があり、日本の核武装放棄と代替に1972年(昭和47年)に[[佐藤栄作]]が[[ノーベル平和賞]]を受賞し、表向き沖縄返還がなされたことで、自衛隊が〈永遠にアメリカの[[傭兵]]として終る〉ことが暗示されていたと西尾は解説している<ref name="nishio"/>。
長く昭和天皇に側近として仕えた[[入江相政]]の日記『[[入江相政日記]]』の記述から、昭和天皇が三島や[[三島事件]]に少なからず関心を持っていたことが示されている<ref>「終章 畏るべき天皇」({{Harvnb|健一|2005|pp=194-206}})、『畏るべき昭和天皇』([[毎日新聞社]]、2007年12月)</ref><ref>[[原武史]]『昭和天皇』([[岩波新書]]、2008年1月)</ref>。
 
なお、[[鈴木邦男]]は、三島が[[女系天皇]]を容認しているメモを、[[楯の会]]の「[[楯の会#憲法改正草案研究会|憲法研究会]]」のために残しているとして、昭和天皇が[[側室]]制度を廃止し、十一家あった旧[[宮家]]を[[臣籍降下]]させたことなどにより、将来必ず[[皇位継承問題 (平成)|皇位継承問題]]が起こることを三島が批判的に予見していたという見解を示しているが<ref>「『[[女帝]]』を認めた三島の真意」({{Harvnb|鈴木|2010}})</ref>、鈴木が見解の元としている[[松藤竹二郎]]の著書3冊にも、そういったメモあるいは伝言の具体的な提示はなく、三島研究者の間でも、三島が女系天皇を容認していたことを示すメモや文献の存在は確認されていない<ref>[httphttps://melma.com/backnumber_149567_5592012/ 「三島は女系天皇をみとめていなかった――男系天皇論者であることは、三島の作品を読んで、その男女観からも明らか」(三島由紀夫の総合研究、2012年6月24日・通巻第662号)]</ref>。
 
鈴木邦男が言う「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」という案は、三島の死後に行われた「憲法研究会」における討議案の中の、あくまで1人の会員の意見として記載されているだけで、それに異議を唱える会員の意見もあり、「憲法研究会」の総意として掲げているわけではない<ref name="fujite">「付章」({{Harvnb|松藤|2007|pp=191-238}})</ref>。仔細に読めば、その後段の話し合いでも、「“継承は男系子孫に限ることはない”という文言は憲法に入れる必要ない」という結論となっている<ref name="fujite"/>{{refnest|group="注釈"|「憲法研究会」のリーダーで、改正案討議の記録を保管していた班長・[[阿部勉 (民族主義者)|阿部勉]]の提案した「[[女帝]]を認める」(「女系」ではない)という意味についても、阿部は「皇統には複数の女帝がおられたんで、女帝は絶対だめだというような意見には反対だという意味ですよ、消極的な」と説明しており、「積極的な一つの主義として確立しろという意味ではない」と述べている<ref name="fujite"/>。}}。
:[[画家]]・[[杉山寧]]の長女。[[日本女子大学]]英文科2年在学中の21歳の時に三島と結婚(大学は2年で中退する)。三島との間に、紀子、威一郎の一男一女を儲ける。[[心不全|急性心不全]]のため58歳で死去。
;長女・[[平岡紀子|紀子]]([[演出家]])
:[[1959年]](昭和34年)[[6月2日]]生 -
:31歳の時に冨田浩司([[外交官]])と結婚。富田との間に子供がいる。
;長男・[[平岡威一郎|威一郎]](元[[実業家]])
*[[複雑な彼]]([[女性セブン]] 1966年1月-7月)◎
*[[三島由紀夫レター教室]]([[女性自身]] 1966年9月26日-1967年5月15日)◇
*[[夜会服 (小説)|夜会服]](マドモアゼル 1966年9月-1967年8月)
*[[奔馬 (小説)|奔馬]]〈豊饒の海・第二巻〉(新潮 1967年2月-1968年8月)
*[[命売ります]]([[週刊プレイボーイ]] 1968年5月21日-10月8日)
*聖女(中央公論 1949年10月)
*魔神礼拝(改造 1950年3月)
*[[邯鄲 (戯曲)|邯鄲]]――[[近代能楽集]]ノ内(人間 1950年10月)
*[[綾の鼓 (戯曲)|綾の鼓]]――近代能楽集ノ内(中央公論 1951年1月)
*艶競近松娘([[柳橋 (神田川)|柳橋]]みどり会プログラム 1951年10月) - 舞踊劇。
*姫君と鏡([[青山圭男]]若柳登・新作舞踊発表会プログラム 1951年11月) - 舞踊劇。
*[[卒塔婆小町 (戯曲)|卒塔婆小町]]――近代能楽集ノ内(群像 1952年1月)◇
*紳士(演劇 1952年1月) - 無言劇。
*只ほど高いものはない(新潮 1952年2月)
*夜の向日葵(群像 1953年4月)
*室町反魂香(柳橋みどり会プログラム 1953年10月) - 舞踊劇。
*[[道成寺 (戯曲)|道成寺]]――近代能楽集ノ内(新潮 1957年1月)◇
*ブリタニキュス(新劇 1957年4月)☆ - [[ジャン・ラシーヌ]]原作・[[安堂信也]]邦訳版。
*朝の躑躅(文學界 1957年7月)
*[[附子 (戯曲)|附子]](1957年) - 1971年4月『中央公論』初掲載。
*[[Long After Love]](1957年) - 1971年5月『中央公論』初掲載。
*[[熱帯樹 (戯曲)|熱帯樹]](聲 1960年1月)
*[[サロメ (戯曲)|サロメ]](1960年4月初演)☆ - [[オスカー・ワイルド]]原作・[[日夏耿之介]]邦訳版。
*[[弱法師 (戯曲)|弱法師]]――近代能楽集ノ内(聲 1960年7月)
*[[十日の菊]](文學界 1961年12月) - 第13回[[読売文学賞]]戯曲部門賞受賞。
*[[黒蜥蜴 (戯曲)|黒蜥蜴]](婦人画報 1961年12月)◎ - [[江戸川乱歩]]の小説『[[黒蜥蜴]]』の戯曲化。
*プロゼルピーナ(1962年11月初演)☆ - [[翻訳]]独白劇。[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]原作・三島由紀夫邦訳版。
*[[トスカ]](1963年6月上演)☆ - ヴィクトリアン・サルドゥ原作・安堂信也邦訳版。
*[[喜びの琴]](文藝 1964年2月) -
*美濃子(新潮社 1964年2月) - オペラ劇。[[黛敏郎]]の作曲が間に合わず、未上演。
*恋の帆影(文學界 1964年10月)
*八月十五日前後(毎日新聞 1955年8月14日)
*戯曲の誘惑([[東京新聞]] 1955年9月6日-7日)
*[[小説家の休暇]](書き下ろし/講談社 1955年11月)
*[[新恋愛講座]]([[Myojo|明星]] 1955年12月-1956年12月)
*歴史の外に自分をたづねて――三十代の処生(中央公論 1956年2月)
*わが思春期(明星 1957年1月-9月)
*旅の絵本(各誌 1957年12月-1958年4月)■
*[[裸体と衣裳]]――日記(新潮 1958年4月-1959年9月)
*外遊日記(新潮 1958年7月、9月、11月)
*[[不道徳教育講座]](週刊明星 1958年7月27日-1959年11月29日)◎◇
*[[私の遍歴時代]](東京新聞 1963年1月10日-5月23日)
*私の中の“男らしさ”の告白(婦人公論 1963年4月)
*小説家の息子(教育月報 1963年7月)
*一S・Fファンのわがままな希望([[宇宙塵 (同人誌)|宇宙塵]] 1963年9月)
*わが創作方法(文學 1963年11月)
*私の小説作法(毎日新聞 1964年5月10日)
*天狗道(文學界 1964年7月)
*[[熊野]]路――新日本名所案内(週刊朝日 1964年8月28日)
*秋冬随筆(こうさい 1964年10月-1965年3月)
*実感的スポーツ論(読売新聞 1964年10月5日-6日、9日-10日、12日)
*東洋と西洋を結び火――開会式(毎日新聞 1964年10月11日)
*「別れもたのし」の祭典――閉会式([[報知新聞]] 1964年10月25日)
*男のおしやれ(平凡通信 1964年12月)
*[[反貞女大学]]([[産経新聞]] 1965年2月7日-12月19日)
*法学士と小説([[学士会]]会報 1965年2月)
*ロンドン通信・英国紀行(毎日新聞 1965年3月25日・4月9日-10日)
*私の戦争と戦後体験――二十年目の八月十五日([[潮出版社|潮]] 1965年8月)
*[[太陽と鉄]](批評 1965年11月-1968年6月)
*[[おわりの美学|をはりの美学]](女性自身 1966年2月14日-8月1日)
*川端康成読本序説(河出書房新社 1962年12月) - 『文芸読本 川端康成』寄稿
*踊り(毎日新聞 1963年1月4日)
*[[林房雄]]論(新潮 1963年2月)
*[[細江英公]]序説([[集英社]] 1963年3月) - 『薔薇刑』序文
*ロマンチック演劇の復興(婦人公論 1963年7月)
*変質した優雅(風景 1963年7月)
*[[芸術断想]](芸術生活 1963年8月-1964年5月)
*[[文学座]]の諸君への「公開状」――「[[喜びの琴]]」の上演拒否について(朝日新聞 1963年11月27日)
*[[市川雷蔵|雷蔵]]丈のこと([[日生劇場]]プログラム 1964年1月)
*解説(『日本の文学38 川端康成』 中央公論社 1964年3月)
*解説(『現代の文学20 [[円地文子]]集』 河出書房新社 1964年4月)
*文学における硬派――日本文学の男性的原理(中央公論 1964年5月)
*現代文学の三方向(展望 1965年1月)
*文学的予言――昭和四十年代(毎日新聞 1965年1月10日)
*谷崎朝時代の終焉(サンデー毎日 1965年8月15日)
*[[小説とは何か]](波 1968年5月-1970年11月)
*[[野口武彦]]氏への公開状(文學界 1968年5月)
*解説(『日本の文学40 [[林房雄]]・[[武田麟太郎]]・[[島木健作]]』 中央公論社 1968年8月)
*[[日沼倫太郎|日沼]]氏と死(批評 1968年9月)
*[[篠山紀信]]論(毎日新聞社 1968年11月) - 『篠山紀信と28人のおんなたち』寄稿
*[[若きサムライのための精神講話|若きサムラヒのための精神講話]](PocketパンチOh! 1968年6月-1969年5月)
*フィルターのすす払ひ――[[日本文化会議]]発足に寄せて(読売新聞 1968年6月18日)
*[[文化防衛論]](中央公論 1968年7月)
*機能と美(男子専科 1968年9月)
*栄誉の絆でつなげ菊と刀(日本及び日本人 1968年9月)
*現代青年論(読売新聞 1969年1月1日)
*[[明治維新|維新]]の若者(報知新聞 1969年1月1日)
*反革命宣言(論争ジャーナル 1969年2月)
*[[自衛隊]]二分論(20世紀 1969年4月)
*一貫不惑(光風社書店 1969年5月) - [[影山正治]]著『日本民族派の運動』付録
*砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(新潮社 1969年6月) - 『[[討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争|討論 三島由紀夫vs.東大全共闘]]』付録
*[[北一輝]]論――「[[日本改造法案大綱]]」を中心として([[三田文学]] 1969年7月)
*日本文化の深淵について([[タイムズ|THE TIMES]] 1969年9月) - “A problem of culture” と英訳。
*[[行動学入門]](PocketパンチOh! 1969年9月-1970年8月)
*三島由紀夫のファクト・[[メガロポリス]]([[週刊ポスト]] 1969年10月17日、31日、11月14日、28日、12月12日)
*STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE([[ニューヨーク・タイムズ]] 1969年11月29日) - “Okinawa and Madame Butterfly’s Offspring” と抄訳。
*「[[楯の会]]」のこと(「楯の会」結成一周年記念パンフレット 1969年11月)
*「国を守る」とは何か(朝日新聞 1969年11月3日)
*「変革の思想」とは――道理の実現(読売新聞 1970年1月19日、21日-22日)
*新知識人論([[日本経済新聞]] 1970年1月22日)
*『[[蓮田善明]]とその死』序文(筑摩書房 1970年3月) - [[小高根二郎]]著への序文
*問題提起(憲法改正草案研究会配布資料 1970年5月)
*士道について――石原慎太郎への公開状(毎日新聞 1970年6月11日)
*[[果たし得ていない約束―私の中の二十五年|果たし得てゐない約束――私の中の二十五年]](サンケイ新聞 1970年7月7日)
*[[武士道]]と[[軍国主義]](1970年7月) - 1978年8月『[[月刊プレイボーイ|PLAYBOY]]』掲載。
*正規軍と不正規軍(1970年7月) - 1978年8月『PLAYBOY』掲載。
*革命哲学としての[[陽明学]]([[諸君!]] 1970年9月)
*[[武士道]]に欠ける現代のビジネス(近代経営 1970年12月)
*わが同志観(潮 1971年2月)
}}
*[[ヤンキー]]気質うらおもて(毎日新聞 1964年4月6日) - 対:桂ユキ子、[[古波蔵保好]]
*歌舞伎滅亡論是非(中央公論 1964年7月)<ref name="gensen"/> - 対:福田恆存
*現代作家はかく考える(群像 1964年9月)<ref name="gensen"/> - 対:[[大江健三郎]]。実施:7月13日
*敗者復活五輪大会――雑談・世相整理学(中央公論 1964年12月) - 対:大宅壮一、[[司馬遼太郎]]
*戦後の日本文学(群像 1965年1月) - 対:[[伊藤整]]、[[本多秋五]]。実施:前年11月12日
*大谷崎の芸術(中央公論 1965年10月)<ref name="gensen"/> - 対:[[舟橋聖一]]
*父・[[森林太郎]](中央公論社 1966年1月) - 対:[[森茉莉]]。『日本の文学2 森鴎外(一)』月報。実施:前年11月8日(赤坂・シド)
*二十世紀の文学(文藝 1966年2月)<ref name="gensen"/> - 対:[[安部公房]]
*[[ニーチェ]]と現代(中央公論社 1966年2月) - 対:[[手塚富雄]]。『[[世界の名著]]46 ニーチェ』月報。実施:1月10日(虎ノ門・福田家)
*なんでもやってのけよう〈連載トップ対談 ふたりで話そう31〉([[週刊朝日]] 1966年8月5日) - 対:[[團伊玖磨]]
*この激動する時代の中で日本人である私はこう思う(主婦の友 1969年11月) - 対:[[中丸薫]]
*[[私小説]]の底流(中央公論社 1969年12月) - 対:[[尾崎一雄]]。『日本の文学52 尾崎一雄・[[外村繁]]・[[上林暁]]』月報。実施:10月7日(銀座・出井)
*現代における[[右翼]]と[[左翼]]――リモコン左翼に誠なし(流動 1969年12月)<ref name="naotake"/> - 対:[[林房雄]]
*戦争の谷間に生きて――青春を語る([[学習研究社]] 1969年12月)■<ref name="cd"/> - 対:[[徳大寺家|徳大寺公英]]。『現代日本の文学35 三島由紀夫集』月報。実施:11月12日(有楽町・日活ホテル)。
*剣か花か――七〇年代乱世・男の生きる道([[小説宝石|宝石]] 1970年1月)<ref name="naotake"/> - 対:野坂昭如。実施:前年12月末([[銀座]]・マキシム)
*タルホの世界(中央公論社 1970年6月) - 対:澁澤龍彦。『日本の文学34 [[内田百間|内田百{{CP932フォント|閒}}]]・[[牧野信一]]・[[稲垣足穂]]』月報。実施:5月8日(赤坂・シド)
*エロスは抵抗の拠点になり得るか(潮 1970年7月)<ref name="naotake"/> - 対:[[寺山修司]]
*[[世阿弥]]の築いた世界(筑摩書房 1970年7月) - 対:ドナルド・キーン、[[小西甚一]]。小西編『日本の思想8 世阿弥集』月報。実施:1968年7月12日
*現代歌舞伎への絶縁状(芸術生活 1970年10月) - 対:[[武智鉄二]]
*文学は空虚か(文藝 1970年11月)<ref>のち{{Harvnb|読本|1983|pp=144-166}}、『源泉の感情 三島由紀夫対談集』(新版・[[河出文庫]]、2006年2月)</ref> - 対:[[武田泰淳]]。実施:9月14日
*逸題詩篇(叙情 1946年6月)
*負傷者(1946年7月23日) - 1949年1月『海峡』掲載。
*故・[[蓮田善明]]への献詩(おもかげ 1946年11月17日)
*軽王子序詩(舞踏 1948年6月)
*新しき[[コロンブス]](1955年8月2日) - [[ニーチェ]]の詩の[[邦訳]]。随筆『小説家の休暇』内掲載。
*隊歌(祖国防衛隊)(祖国防衛隊ちらし 1968年1月)
*起て! 紅の若き獅子たち([[楯の会]]の歌)(楯の会隊員手帳 1970年1月)■<ref name="cd"/> - 作曲:[[越部信義]]
*[[辞世の句]](1970年11月25日)
**「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」
**「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」
**詩:[[浅野晃]]。作曲・指揮:[[山本直純]]。朗読:三島由紀夫。演奏:[[新室内楽協会]]
**※ [[LPレコード]]。のち1970年12月に[[日本コロンビア]]からも発売。
*「[[英霊の声]]――三島由紀夫作『英霊の聲』より」([[クラウンレコード]] 1970年4月29日発売)■<ref name="cd"/>
**作曲・編曲:[[越部信義]]。朗読:三島由紀夫。竜笛:関河真克。演奏:クラウン[[弦楽四重奏団]]。
**ジャケット題字「英霊の声」:三島由紀夫
**※ EPレコード。A面は「起て! 紅の若き獅子たち――[[楯の会]]の歌」
*「起て! 紅の若き獅子たち――楯の会の歌」(クラウンレコード 1970年4月29日発売)■<ref name="cd"/>
**作詞:三島由紀夫。作曲・編曲:越部信義。歌唱:三島由紀夫と楯の会
**※ EPレコード。B面は「英霊の声――三島由紀夫作『英霊の聲』より」
初版刊行本を記載(後発の刊行情報は各記事を参照)。▲印は限定本。ダッシュ以下は収録作品、説明など。
 
[[著作権]]は、酒井著作権事務所が一括管理している<ref>「編集協力」({{Harvnb|太陽|2010|p=192}})</ref>。2010年11月時点で三島の著作は累計発行部数2400万部以上<ref>[httphttps://megalodonweb.jparchive.org/web/20110203011737/http:/2010-1220-0133-58/sankei.jp.msn.com/culturelife/booksnews/101123110117/bks1011231033001bks11011722590015-n2.htm 三島由紀夫、没後40年で関連本ラッシュ “仮面”の素顔気さくな一面も (ウェ](2011年2月30日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイ魚拓)]]) - MSN産経ニュース、2010年11月23日。</ref>。
 
=== 単独の単行本 ===
*『[[宴のあと]]』(新潮社、1960年11月15日) - 帯(裏)に臼井吉見、[[河上徹太郎]]、中村光夫、[[平野謙 (評論家)|平野謙]]による作品評あり。
*『[[お嬢さん (三島由紀夫の小説)|お嬢さん]]』([[講談社]]、1960年11月25日)
*『スタア』(新潮社、1961年1月30日) - スタア、[[憂國]]、[[百万円煎餅]]
*『[[獣の戯れ]]』(新潮社、1961年9月30日)
*『美の襲撃』(講談社、1961年11月15日) - 序、[[中村歌右衛門 (6代目)|六世中村歌右衛門]]、魔――現代的状況の象徴的構図、十八歳と三十四歳の肖像画、一つの政治的意見、[[俵屋宗達]]、存在しないものの美学――「[[新古今集]]」珍解、川端康成再説、舟橋聖一の「若いセールスマンの死」、大岡昇平氏――友情と考証、など83篇
=== 全集・選集 ===
*『三島由紀夫作品集』〈全6巻〉([[新潮社]]、1953年7月25日-1954年4月30日)
**1巻([[仮面の告白]]、[[盗賊 (小説)|盗賊]])、2巻([[愛の渇き]]、[[青の時代 (小説)|青の時代]])3巻([[禁色 (小説)|禁色]])。4巻-5巻(短篇)。6巻(戯曲・評論)<br />各巻に三島の「あとがき」あり。
*『三島由紀夫選集』〈全19巻〉(新潮社、1957年11月30日-1959年7月10日)
**ジャンルを問わない編年体の編集。3巻-5巻、9巻、11巻-19巻には付録として、文芸評論家や作家による同時代作品評あり。
*『獅子・孔雀』(1971年2月27日) - [[軽王子と衣通姫]]、殉教、獅子、毒薬の社会的効用について、急停車、スタア、[[三熊野詣]]、孔雀、[[仲間 (小説)|仲間]]。解説:[[高橋睦郎]]
*『[[青の時代 (小説)|青の時代]]』(1971年7月23日) - 解説:西尾幹二
*『[[春の雪 (小説)|春の雪]]』(1977年7月30日) - 解説:[[佐伯彰一]]
*『[[奔馬 (小説)|奔馬]]』(1977年8月30日) - 解説:村松剛
*『[[暁の寺 (小説)|暁の寺]]』(1977年10月30日) - 解説:[[森川達也]]
*『[[不道徳教育講座]]』(1967年11月30日) - 「暗殺について」を除く69篇。解説:奥野健男
*『美と共同体と東大闘争』(2000年7月25日) - 新潮社より1969年6月25日刊行の『[[討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争|討論 三島由紀夫vs.東大全共闘《美と共同体と東大闘争》]]』と同一内容だが、人権擁護の見地から「われわれはキチガイではない」の章名が「目の中の不安」と変更。
*『[[夜会服 (小説)|夜会服]]』(2009年10月25日) - 解説:[[田中和生]]
*『[[複雑な彼]]』(2009年11月25日) - 解説:[[安部譲二]]
*『[[お嬢さん (三島由紀夫の小説)|お嬢さん]]』(2010年4月25日) - 解説:[[市川真人]]
*『三島由紀夫 ロゴスの美神』([[山内由紀人]]編、岳陽舎、2003年7月31日)
**[[檄 (三島由紀夫)|檄]]、[[詩を書く少年]]、[[日本の降伏|敗戦]]、[[楯の会]]、日本、政治の言葉など、42のテーマに分け三島作品から採った箴言集。
*『人間の性 三島由紀夫の言葉』(佐藤秀明編、[[新潮新書]]、2015年11月20日)
**「男女の掟、世間の掟、人間の性、芸術の罠、国家の檻」のテーマに分け、三島作品・対談などから引用し解説。
*『三島由紀夫 行動する言葉100』(英和出版社、2016年3月)。下記とも、写真と併せた語句解説。
*『三島由紀夫100の言葉――日本を心の底から愛するための心得』([[適菜収]]監修、[[別冊宝島]]編集部編、[[宝島社]]、2016年7月)
:[[脚本家]]、小説家。1955年(昭和30年)7月に発足した「[[日本空飛ぶ円盤研究会]]」創立メンバーで、翌年この会に入会した三島と知り合い、交流した<ref> 「空飛ぶ円盤と人間通――[[北村小松]]氏追悼」(朝日新聞 1964年4月30日号)。{{Harvnb|33巻|2003|pp=31-33}}</ref><ref name="gai11"/>。同会には他に、[[星新一]]、[[黛敏郎]]、石原慎太郎などが入会した<ref name="gai11"/>。
;[[北杜夫]]
:小説家。年齢が近く、同じ[[山の手]]出身。[[奥野健男]]を通じて1961年(昭和36年)から交友が始まった<ref name="okuno16"/>。三島は北の『[[楡家の人びと]]』を気に入り推薦した。北の父親・[[斎藤茂吉]]と、三島の[[おじ|伯父]]で[[精神科医]]の[[橋健行]]は親友同士で、健行は『楡家の人びと』の聖子(モデルは杜夫の叔母)の婚約者だった男性として言及されている<ref>[httphttps://melma.com/backnumber_149567_5335353/ 岡山典弘「三島文学に先駆けた橋健行」(三島由紀夫の総合研究、2011年11月11日・通巻第579号)]</ref>。
;[[紀平悌子]]
:三島の亡き妹・[[平岡美津子|美津子]]と同級生だった縁もあり、三島と交際していた時期があった<ref>[[紀平悌子]]「三島由紀夫の手紙」([[週刊朝日]] 1974年12月13日号-1975年4月18日号)。{{Harvnb|日録|1996|pp=96-97}}</ref>。実弟の[[佐々淳行]]は、[[新左翼]]による暴徒鎮圧に従事していた警視庁警務部参事官時代に三島と知り合い、[[東大安田講堂事件]]の際には、彼らを飛び降り自殺させないように[[ヘリコプター]]で催眠ガスを撒いてくれと三島から警視庁に電話が来たという<ref name="s-nen6"/>。
:日本浪曼派系の[[国文学者]]、[[和泉式部]]研究家。筆名「三島由紀夫」を提案し著作活動を促した恩師。戦後は、発足間もない新制の[[広島大学]]に赴任し、1967年(昭和42年)の退官の際には、大学の国文学攷に三島が評論『古今集と新古今集』を寄稿した<ref name="kokin"/>。
;[[澁澤龍彦]]
:[[フランス文学者]]、小説家。澁澤が自ら訳した『[[マルキ・ド・サド]]選集』(1956年)の序文を三島に依頼して以来親交し、『[[サド侯爵夫人]]』の着想も、澁澤の『サド侯爵の生涯』(1964年)から得られた。澁澤は追悼文で、「自分の同世代者のなかに、このようにすぐれた文学者を持ち得た幸福を一瞬も忘れたことはなかった」と三島を哀悼した<ref>「三島由紀夫氏を悼む」([[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 1971年1月号)。{{Harvnb|澁澤|1986|pp=67-74}}</ref>。三島の死後は、憑かれたように古寺[[巡礼]]の旅に出た<ref>[httphttps://melma.com/backnumber_149567_3470670/ 宮崎正弘「書評」(三島由紀夫の総合研究、2006年12月18日・通巻第106号)]。澁澤龍彦・澁澤龍子『澁澤龍彦の古寺巡礼』([[平凡社]]コロナ・ブックス、2006年11月)</ref>。
;[[篠山紀信]]
:写真家。処女出版『篠山紀信と28人のおんなたち』(1968年)に三島が序文「篠山紀信論」を寄せた。1970年(昭和45年)9月に[[薔薇十字社]]から企画が上がり、編集者・[[内藤三津子]]の執拗な再三の要請で三島がやっとモデルを引き受けた写真集『男の死』の撮影が11月17日に完了し出版が決定していたが、写真は数点が公開されたのみで、三島事件で立ち消えとなり、篠山側の意向もあり未出版である<ref name="shii">「最新版 三島由紀夫と記憶と精霊たち」({{Harvnb|椎根|2012|pp=5-74}})</ref><ref name="shii10">「第十章 白い錬金術師の家」({{Harvnb|椎根|2012|pp=309-344}})</ref>。
:[[最高裁判所裁判官]]。帝大法学部時代の三島に[[刑事訴訟法]]を教えていた教授。団藤は、三島没後の回想文で、『仮面の告白』の表層と深層の錯綜する二重構造的な構成を、三島の「美」の世界が比類のない論理と言語の[[魔術]]により現成されたとして、その文学を賞讃している<ref>[[団藤重光]]「三島由紀夫と刑事訴訟法」(日本法律家協会「窓」3号 1971年)。『この一筋につながる』([[岩波書店]]、1986年4月)、『わが心の旅路』([[有斐閣]]、追補版1993年6月)。{{Harvnb|事典|2000|p=430}}</ref>。
;[[堤清二]]
:[[実業家]]、小説家。筆名「辻井喬」などで小説や詩を書き、三島とも交友が深かった。三島が組織した祖国防衛隊(のち「楯の会」)の軍服のため、デザイナー・五十嵐九十九を紹介した<ref name="tsuji"/>。三島自決直後に開かれた追悼会では、ポケットマネーから資金を提供した他、三島映画上映企画などでも会場を提供するなど、三島の死後も協力した<ref name="tutumi">[httphttps://melma.com/backnumber_149567_5937777/ 「三島の理解者 堤清二氏が死去」(三島由紀夫の総合研究、2013年11月29日・通巻第773号)]</ref>。なお86歳で堤が逝去した日は、三島の命日と同日だった<ref name="tutumi"/>。
;[[椿實]]
:小説家。椿が1948年(昭和23年)に『[[新思潮]]』に発表した「人魚紀聞」に対し、三島が讃辞の葉書を送ったのをきっかけに、椿が三島の務める大蔵省を訪ねたのが交友の始まりとなった。三島が口述した[[稲垣足穂]]論を椿がノートに取り、「クナアベンリーベ」(少年愛)と名付けて[[玄文社]]に渡したが、当時の出版不況のために未発表となった。『[[永すぎた春]]』は、椿が「木内書店の娘はいいぞ」と言ったのが元となり、主人公の青年は、椿がモデルの一部となっている<ref>椿實「三島由紀夫の未発表原稿」(『椿實全作品』立風書房、1982年)。{{Harvnb|新読本|1990|pp=42-43}}</ref>。
'''事典・資料・アルバム系'''
*{{Citation|和書|editor=安藤武|date=1996-04|title=三島由紀夫「日録」|publisher=未知谷|id={{NCID|BN14429897}}|ref={{Harvid|日録|1996}}}}
*{{Citation|和書|author=安藤武|date=1998-09|title=三島由紀夫の生涯|publisher=夏目書房|isbn=978-4931391390|ref={{Harvid|生涯|1998}}}}
*{{Citation|和書|author=安藤武|date=2001-12|title=三島由紀夫全文献目録|publisher=夏目書房|isbn=978-4931391819|ref={{Harvid|文献|2001}}}}
*{{Citation|和書|editor=[[磯田光一]]|date=1983-12|title=新潮日本文学アルバム20 三島由紀夫|publisher=新潮社|isbn=978-4106206207|ref={{Harvid|アルバム|1983}}}}
*{{Citation|和書|author=井上隆史|date=2006-12|title=三島由紀夫 虚無の光と闇|publisher=試論社|isbn=978-4903122069|ref={{Harvid|井上隆史|2006}}}}
*{{Citation|和書|author=[[井上隆史 (国文学者)|井上隆史]]|date=2010-11|title=三島由紀夫 幻の遺作を読む―もう一つの『豊饒の海』|publisher=[[光文社新書]]|isbn=978-4334035945|ref={{Harvid|井上・遺作|2010}}}}
**{{Citation|和書|author=井上隆史|date=2018-02|title=「もう一つの日本」を求めて―三島由紀夫『豊饒の海』を読み直す|publisher=[[現代書館]]|isbn=978-4768410127|ref={{Harvid|井上・日本|2018}}}}改訂版
*{{Citation|和書|editor1=松本徹|editor2=佐藤秀明|editor3=井上隆史;山中剛史|date=2005年11月-刊行中|title=三島由紀夫研究|publisher=鼎書房|url=http://www.kanae-shobo.com/kin/028.htm|ref={{Harvid|三島研究}}}}17冊刊(2017年現在)
*{{Citation|和書|editor1=松本徹|editor2=佐藤秀明|editor3=井上隆史|date=2001-03|title=世界の中の三島由紀夫|series=三島由紀夫論集III|publisher=勉誠出版|isbn=978-4585040439|ref={{Harvid|論集III|2001}}}}
*{{Citation|和書|author=[[ジョン・ネイスン]]|translator=[[野口武彦]]|date=2000-08|title=新版 三島由紀夫─ある評伝|edition=改訂|publisher=新潮社|isbn=978-4864100281|ref={{Harvid|ネイスン|2000}}}} - 旧版(新潮社)は1976年6月 {{NCID|BN05986010}}
**英書の原題は、"Mishima: A Biography"(1974年)
*{{Citation|和書|author=[[マルグリット・ユルスナール]]|translator=[[澁澤龍彦]]|date=1995-12|title=三島由紀夫あるいは空虚のヴィジョン|publisher=[[河出文庫]]|isbn=978-4309461434|ref={{Harvid|ユルス|1995}}}}
**初版は「三島あるいは空虚のヴィジョン」([[河出書房新社]]、1982年5月)、のち『澁澤龍彦翻訳全集15』(同、1998年)にも収録、ISBN 978-4309707457
**フランス書の原題は、"Mishima ou la vision du vide"(1981年)
{{ウィキポータルリンク|文学|[[画像:Open book 01.svg|none|34px]]}}
*[http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/mishima_y.html 三島由紀夫墓所]
*[http://mishima.xii.jp/contents/index.html 三島由紀夫研究会]
*{{Wayback |url=http://www.vill.yamanakako.yamanashi.jp/bungaku/mishima/index.html |title=三島由紀夫電子博物館 |date=20070703064728}}
*[http://www.mishimayukio.jp/ 三島由紀夫文学館]
*{{imdb|0592758}}
*[httphttps://melma.com/backnumber_149567_6213179backnumber_149567/ 三島由紀夫研究会メールマガジン]
*[http://www.3ihanazakari.com/index.html 隠し文学館 花ざかりの森]
*[httphttps://www.nobelprize.org/nomination/archive/show_people.php?id=12680 Nomination Database Yukio Mishima (2017年6月現在、19661967年分まで公開)]. ノーベル賞公式サイト. {{En icon}}
*[http://www.yukiomishima.jp/ 2015年 三島由紀夫生誕90年・没後45年記念プロジェクト 公式サイト]
*[http://www.nobelprize.org/nomination/archive/show_people.php?id=12680 Nomination Database Yukio Mishima (2017年現在、1966年分まで公開)]. ノーベル賞公式サイト. {{En icon}}
 
{{三島由紀夫}}
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