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{{by|1989年}}は引退した[[東尾修]]に代わるエースとしての活躍が期待され<ref name="base_19890123_25">「郭泰源&呂明賜の一大決意報告 『郭源治に続くのはオレたちだ!』」『週刊ベースボール』、1989年1月23日号、P.25</ref>、自己最多となる26試合に先発し198回1/3を投げてリーグ3位の防御率3.27となった。なお、[[6月7日]]の対ロッテ戦では初めて[[荘勝雄]]との先発対決が実現し、0対1で敗れている。同年は自身最低の10敗(10勝)となった<ref name="base_19900205_37">「'90ライバルのいる風景 5回 郭源治vs荘勝雄vs郭泰源 異国での仲間意識と“台湾No.1”を巡る競争意識と…」『週刊ベースボール』、1990年2月5日号、P.37</ref>が、チームトップの防御率が評価されて10%増の年俸6600万円(推定)で契約を更改している<ref name="base_19900205_37"/>。翌{{by|1990年}}は初めて[[1990年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に出場し、第1戦で1イニングを投げてパ・リーグの完封リレーの一翼を担っている。同年はヒジや肩の故障で4年ぶりに[[規定投球回]]を割り込んだ<ref name="Number_19911120_59">「SPECIAL INTERVIEW ヒジの調子が悪くて、いつものスライダーが放れなかった。でも、それを切り抜けるのがエースだと思う」『Number』、1991年11月20日号、P.59</ref>が、18試合で9勝を挙げた。[[1990年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第4戦に先発して6回を3失点に抑え、3年ぶりにシリーズでの勝利を挙げている。
 
{{by|1991年}}のキャンプでは同じ投手の[[レイモンド・ヤング]]が競争相手となったが、[[5月5日]]の対近鉄戦ではシーズンベストの投球内容<ref name="Number_19911120_58">『Number』、1990年11月20日号、P.58</ref>で1失点完投。オールスター前には5連敗するも、同期間の調整が功を奏して[[7月30日]]の対ロッテ戦から[[9月28日]]の対[[オリックス・バファローズ|オリックス]]戦まで<ref name="pacific_pitcher">[http://www.pacific.npb.or.jp/bluebook/blu_crecords5.html パ・リーグ 投手の連続記録]</ref>、パ・リーグ歴代2位<ref>歴代1位は{{by|1978年}}に鈴木啓示が記録した10試合連続。</ref>となる9連続完投勝利を記録した。この間の8月、9月はいずれも無敗の4完投勝利、防御率もそれぞれ2.00、1.00という好成績をおさめて2ヶ月連続で月間MVPを受賞し、[[渡辺智男]]や[[工藤公康]]の一時離脱<ref name="Number_19911120_58"/>を十分カバーしている。また同年は優勝を争った[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]に対して防御率0.78で7勝1敗と好投して優勝の原動力となり<ref name="Number_19911120_59"/>、[[最優秀選手 (日本プロ野球)|MVP]]や[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]に輝いた。一方、[[1991年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]ではヒジの疲労もあって<ref name="Number_19911120_59"/>第2戦では4回1/3を投げて4失点で敗れている。第6戦では5回を1失点に抑え、継投した[[石井丈裕]]が勝利投手となった。
 
{{by|1992年}}は[[7月12日]]の対近鉄戦で腰痛を訴えて途中降板し、これを理由に[[1992年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]を直前で辞退した<ref>毎日新聞、1992年7月22日付朝刊、P.21</ref>。これについて他球団から[[仮病]]の疑いを指摘されて物議を醸し、球団側が自主的に後半戦開始直後の10試合をベンチから外している。シーズン終盤の[[8月21日]]の対オリックス戦から[[9月8日]]の対日本ハム戦まで、パ・リーグタイ記録となる3試合連続完封勝利<ref name="pacific_pitcher"/><ref>{{by|1972年}}の[[清俊彦]]以来、20年ぶりの記録。</ref>を挙げるなど、同年は14勝を挙げた。この年は2年連続となる[[ゴールデングラブ賞]]を受賞している。[[1992年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]では第2戦に先発し、[[ジャック・ハウエル]]の打球を手に受けて降板するまでの6回1/3を無失点に抑えて勝利投手となっている。オフには3000万円増の年俸1億3000万円(推定)で契約を更改した<ref>毎日新聞、1992年12月26日付朝刊、P.17</ref>。