「金正日」の版間の差分

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三重人 (会話 | 投稿記録)
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また、名が「ユーラ」から「ジョンイル」に変わったのは[[朝鮮半島]]の解放後の[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|ソビエト連邦軍政期]]とする説、[[1960年]]夏頃とする説がある<ref>金正日の学友の一人だった人物の証言によれば、金正日は南山高級中学校(高級中学校は日本の高等学校に相当)卒業直前の1960年7月に「最近“キム・ジョンイル”の名前で公民証が発給されたので、今後は“ユーラ”でなく“ジョンイル”と呼んでほしい」と語ったといわれる(韓国・[[中央日報|中央日報社]]編『金正日・衝撃の実像』[[徳間書店]] 1994年9月 ISBN 9784198601614)。</ref>。[[1980年]]の第6回党大会にて「金正日」という表記が確認された。<!--「正日」は父である金日成、[[金正淑]]から一文字づつ取り、ほかの兄弟たちとの差別化を図ったと考えられている。ほかの兄弟はみな「日」ではなく「一」の字を使った。(←ノートを反映して、とりあえずコメントアウト)-->「キム・ジョンイル」の名が公式文書に登場した当初、日本では「'''金正一'''」の字があてられていた<ref>日本のマスコミで金正日について初めて報道したのは[[毎日新聞]]([[1974年]][[11月19日]]付)。金正日は「金正一」と表記されている。</ref>(当時、朝鮮人が父母の名から字を取ることは稀であり、[[人名#朝鮮半島の人の名前|朝鮮の伝統的な命名ルール]]ではあり得ないこととされている)。
 
おせちんこ
=== 幼年期 ===
[[1945年]][[11月25日]]、父・金日成の側近の1人である[[趙明禄]]の護衛により<ref>『北朝鮮解体新書』p.33</ref>、母・[[金正淑 (北朝鮮)|金正淑]]、弟・修羅([[金万一]])とともにソ連から海路で朝鮮に帰国。[[羅先特別市|雄基港]]に上陸後<ref>金正日はこの時のことを記憶しており「雄基港の灯台について深い印象が残っている」と語っている([[張明秀]]『裏切られた楽土』 [[講談社]] 1991年8月 ISBN 4062050749)。</ref>、[[清津市|清津]]を経由して[[平壌]]に移動し、先に帰国していた父のもとに落ち着いた。[[1946年]]に妹・[[金敬姫]]が生まれたが、[[1947年]]に弟を事故で、[[1949年]]には母を[[前置胎盤]]でそれぞれ亡くしている。幼年期は内向的な性格だった。
 
[[朝鮮戦争]]開始後の[[1950年]]9月中旬、[[朝鮮人民軍|北朝鮮軍]]の形勢が不利になると、曽祖父母や妹と共に平壌から[[平安北道]](現:[[慈江道]])[[長江郡]]に疎開するが、[[国連軍]]が北上し中朝国境付近に迫ると、[[満浦市|満浦]]経由で中華人民共和国に脱出、疎開先の中国[[吉林市]]内の学校に妹の金敬姫とともに通学した<ref>{{Cite news|url=http://japanese.donga.com/List/3/all/27/312896/1|title=金総書記訪問の中国・吉林省は「幼い頃の思い出の地」|newspaper=[[東亜日報]]|date=2010-09-24|accessdate=2017-10-05}}</ref>。[[1952年]]11月下旬、父の指示により北朝鮮に帰国した<ref>『北朝鮮解体新書』p.142</ref>。
 
=== 青少年期 ===