== イラクの核開発 ==
イラクのフセイン政権は、[[産油国]]でありエネルギー資源に不安のがないイラクが原子力開発を行ったう理由として、イラクは将来の石油資源枯渇を見据え開発したものだと主張していたが、実際にはイスラエルへの対抗目的で、イラクのフセイン政権は核武装を狙っ目指しているとのではないうかと疑われていがあった。<ref name="Raid on the Sun(ja) P52-53">[[ロジャー・クレイア]] 『イラク原子炉攻撃!』 [[高澤市郎]]訳、[[並木書房]]、2007年、ISBN 4890632158、52-53頁</ref>。イスラエルが既に核兵器を保有しているという情報は、[[PLO]]からイラク政府にもたらされており、この情報がきっかけとなってイラクは核兵器開発に着手した<ref name="Raid on the Sun(ja) P37-39">[[ロジャー・クレイア]] 『イラク原子炉攻撃!』 [[高澤市郎]]訳、[[並木書房]]、2007年、ISBN 4890632158、37-39頁</ref>。
このイスラエルが核兵器を保有していると言う情報を[[PLO]]がパレスチナ系アメリカ人の書いた『イスラエルの核爆弾』と言う書籍によりイラク政府に売り込んだ事が、当時のフセイン大統領に核兵器開発を行うきっかけを与えた。<ref name="Raid on the Sun(ja) P37-39">[[ロジャー・クレイア]] 『イラク原子炉攻撃!』 [[高澤市郎]]訳、[[並木書房]]、2007年、ISBN 4890632158、37-39頁</ref>
1960年代始め、イラクは[[ソビエト連邦|ソ連]]から1960年代始めに5MWクラスの[[原子炉]]を導入していたが、この[[原子炉]]にはフセイン大統領が必要としていた望んだ兵器グレードの[[プルトニウム]]の製造能力を持たなかった。またソ連は無い上、不要な機材を含めたトン当たり幾ら方式の金額算定や、専門知識をも持たず作業も行わない[[窓際族]]的な人員もを含めた給料の請求、原子炉運用に必要なメンテナンスは行わないといった、技術を持たない衛星国相手の不誠実な取引を行った。この時期の具体的な成果の有ったイラク原子力エネルギー機構の具体的な仕事と言える物ものは、フセインの食事に使用される食材の毒味であった。<ref name="Raid on the Sun(ja) P49">[[ロジャー・クレイア]] 『イラク原子炉攻撃!』 [[高澤市郎]]訳、[[並木書房]]、2007年、ISBN 4890632158、49頁</ref>。イラクは[[1970年代]]から独自に核技術を研究していたが、[[原子炉]]を自力で建設することはできず、[[フランス]]から技術供与を受けて7万キロワットの原子力発電所の建設に着手した。
イラクは[[1970年代]]から核技術研究を独自に行なっていたが、[[原子炉]]を建設するほどの工業力がなかったため、[[フランス]]から[[核燃料]]と技術者の提供を受け7万キロワットの原子力発電所を建設していた。
この原子炉(オシリス級原子炉、フランスはオシリスとイラクを合成した「[[オシラク]]」の名で呼び、イラクは[[バアス党]]が政権を奪取した月の名である「タムーズ1」と呼んだ)は1982年7月稼動予定であったが、このれにより原子炉を軍事転用して核兵器に必要な[[濃縮ウラン]]を生産もすることが可能であった。そのとなるため、イスラエルはイラクが核開発することに非常に強い危機感を持って抱いた。
== イスラエルの暗躍による妨害 ==
当初、まずイスラエルは外交手段によって事態る解決を収拾しようと試み、フランス政府に技術供与を取りやめるように要請するしたが、当時のフランス大統領[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン|ジスカール・デスタン]]は平和利用のための技術供与だとしてこれを断った。
当時のフランス・[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン|ジスカール・デスタン]]大統領は平和利用のためとし断る。そのため、[[イスラエル諜報特務庁]](モサド)と国防軍の情報機関[[イスラエル参謀本部諜報局]](アマーン)を使い、以下のような阻止工作をしたといわれている。 ▼
▲当時のフ外交による解決が不首尾に終わると、イスラ ンス・[[ヴァレリー・ジスカーエル ・デスタン|ジスカール・デスタン]]大統領は 平和利用のためとし断る。そのため、[[イスラエル諜報特務庁]](モサド)と国防軍の情報機関[[イスラエル参謀本部諜報局]](アマーン)を使い、以下のような 阻止妨害工作を し行ったと いわされ ている。
[[1979年]]4月、フランスのラ・セーヌ・シュルメール港の倉庫に格納されていたイラク向け原子炉格納容器を爆破(犯行声明はフランスの過激派名義だった)。つぎに[[1980年]]6月には、イラクの核開発の責任者がフランスのホテルで撲殺され、8月には原子炉開発の契約企業のローマ事務所と重役の私邸が爆破され(イスラム革命保障委員会から犯行声明があった)、イラクの核開発に関係するフランスと[[イタリア]]の科学者宛にイラク差出の脅迫状が送付された。しかし、それらの妨害活動にくじけることなく原子力発電所の完成が近づいたため、イスラエルはあえて国際法に抵触する危険がある武力攻撃を決意。
*[[1979年]]4月、フランスのラ・セーヌ・シュルメール港の倉庫に格納されていたイラク向け原子炉格納容器が爆破された(犯行声明はフランスの過激派の名義だった)。
作戦上の最大の障害として、当時[[イスラエル航空宇宙軍|イスラエル空軍]]の主力戦闘攻撃機[[F-4 (戦闘機)|F-4]]では必要な航続距離がなかった。しかし折しも、アメリカから[[イラン革命]]によりキャンセルされた最新鋭[[F-16 (戦闘機)|F-16戦闘機]]を購入する事となり、作戦実行可能となった。 ▼
*[[1980年]]6月、イラクの核開発の責任者がフランスのホテルで撲殺された。
*1980年8月、原子炉開発の契約企業のローマ事務所と重役の私邸が爆破された(イスラム革命保障委員会から犯行声明があった)。
*イラクの核開発に関係するフランスと[[イタリア]]の科学者宛に、イラク差出の脅迫状が送付された。
▲これらの妨害工作にも関わらず原子力発電所の完成が近づいたため、イスラエルは国際法に抵触する危険のある武力攻撃を決意した。作戦上 の最大の障 害壁と してなったのは距離の問題で、当時 の[[イスラエル航空宇宙軍|イスラエル空軍]]の主力戦闘攻撃機 であった[[F-4 (戦闘機)|F-4]]では 必要な航続距離が 足りなかった。しかし 折しも、アメリカから[[イラン革命]]により 発注がキャンセルされた最新鋭 の[[F-16 (戦闘機)|F-16戦闘機]]を アメリカから購入する事となり、作戦 が実行可能となった。
== バビロン作戦 ==
1981年6月7日午後4時、2000ポンド(908kg)の[[Mk 84 (爆弾)|Mk-84爆弾]]を2発ずつ搭載したイスラエル空軍[[第110飛行隊 (イスラエル空軍)|第110飛行隊]]、[[第117飛行隊 (イスラエル空軍)|第117飛行隊]]所属のF-16戦闘機8機が、護衛の[[第133飛行隊 (イスラエル空軍)|第133飛行隊]]所属の[[F-15 (戦闘機)|F-15戦闘機]]6機を伴い[[シナイ半島]]東部エツィオン空軍基地から飛び立った。同部隊は[[ヨルダン]]及び[[サウジアラビア]]を[[領空侵犯]]してイラク領内に侵入した。この飛行ルートは事前に対空砲とレーダーの位置を、[[イスラエル諜報特務庁|モサド]]の諜報員によっての調べ査で判明していた対空砲とレーダーの配置から割り出されたイラク防空網の死角であった。そしてイスラエル空軍機は午後5時30分前に原子炉付近に到達し、イスラエル空軍機は16発の爆弾を投下した。使用されたのは誘導装置を備えない自由落下型の爆弾であった。投下された16発のうち1発は原子炉を完全直撃するものの不発弾で、また別の1発は隣接施設内に落下したが、14発が命中して原子炉は破壊された。この攻撃により警備していたイラク軍兵士10名とフランス人技術者1名が犠牲になった。戦闘機部隊はイラク空軍機の迎撃にあうことなく、往路と同じルートで全機が帰投した。
この際投下した爆弾16発のうち、14発が原子炉を直撃。うち1発は原子炉を直撃するものの不発(時限信管が作動しなかった模様)、また別の1発は隣接施設内に落下し爆発。
この攻撃に使用された爆弾は、一切の誘導装置を備えない自由落下型であった。この攻撃により警備していたイラク軍兵士10名とフランス人技術者1名が犠牲になった。戦闘機部隊は危惧されていたイラク空軍機の迎撃にあうことなく、往路と同じルートで全機が帰投した。
イラクは当初どこから攻撃を受けたか分から特定できず、交戦中の[[イラン]]からの攻撃も疑っていたが、。翌日のイスラエル政府の声明により事態が空爆を認め、明らかとなった。イスラエル政府は、自国民の安全確保のためイラクが核武装する前にの先制攻撃したものであり、原子炉稼動後に攻撃したのでは「[[死の灰]]」を広い範囲に降らせる危険があったため急遽作戦を実行したと言明主張した。
この作戦は、イスラエルがイラクへの国連安保理武力制裁決議を経なといで行ったため正規の手続きを経ずにイラクを攻撃したことから、欧州を中心にイスラエルへの非難が沸き起こった。
== その後 ==
イスラエルはこの攻撃を中東地域の核拡散を防ぐものためだとしてこの攻撃を正当化していたが、[[1986年]]、同国。しかしイスラエルの元核技術者[[モルデハイ・ヴァヌヌ]]の[[1986年]]の告発により、当のイスラエル自身が1960年代よりからフランスの協力によりを受けて核開発を行い、既に1981年時点で多くの核兵器を保有を暴露されしていたことが判明している。
[[湾岸戦争]]では米空軍による[[スカッド]]狩りも、[[ミサイル防衛]]システムによる迎撃も失敗してエルサレムはイラクの短距離弾道弾スカッドを被弾した。しかし、イスラエルはオシラク核施設を空爆してイラクの原爆生産を阻止してあったので、イラクの武器庫には核弾頭がなく、エルサレムは通常弾頭スカッドを被弾しただけだった。そのためエルサレムの被害は小規模で済んだ。
この事件を題材にして作られたフィクションのスパイ小説としては、イギリスの[[A・J・クィネル]] が1982年による出版した『スナップ・ショット』 (Snap Shot)が1982年に出版ある。日本では1984年に出版され、NHK-FMでラジオドラマとして放送された。
新鋭機F-16のパイロットの一人に、経験豊富なパイロット、[[イラン・ラモーン]]がいた。のちに彼はイスラエル初の宇宙飛行士として[[2003年]]1月に[[コロンビア (オービタ)|スペースシャトル・コロンビア]]に乗り組むが、[[コロンビア号空中分解事故]]で落命した。
この爆撃作戦はイスラエル国内では政権党[[リクード]]にプラスの方向で作用、3週間後の選挙で[[メナヘム・ベギン]]率いるリクードは大勝した。
オシラク原子炉はその後も爆撃当時のままで残っていたが、[[湾岸戦争]]でアメリカ空軍の攻撃を受け完全破壊された。 ▼
こイラクは1982年の爆撃作戦は一周年にイスラエル国内では政権党を非難する[[リクード切手]]にプラスの方向4種を発行した。そこで作は平和利用、3週間後目的の選挙原子炉で[[メナヘム・ベギン]]率あったと主張しているリクードは大勝た。
▲オシラク原子炉 の廃墟は その後も爆撃当時のまま でその後も残っていたが、[[湾岸戦争]]でアメリカ空軍の攻撃を受け て完全破壊された。
一方、イラクは1982年の爆撃一周年にイスラエルを非難する[[切手]]4種を発行。そこでは「平和利用」であったと主張していた。
== 関連書籍 ==
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