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'''齋藤 龍''' (さいとうりゅう、女性、[[1935年]]3月 - )は、[[日本]]の[[音楽学者]]、[[音楽教育]]者、[[文筆家]]。旧姓は渡邊。
 
[[横浜市]]で初の女性[[副市町村長|助役]]に任命された。財団法人[[横浜市芸術文化振興財団]]理事長も務めた。
 
==来歴==
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併行して基礎研究を続け、[[神奈川新聞]]の前身である横浜貿易新報より、[[大正]]年間の音楽に関連する記述や広告などまでをすべて抽出した『横浜貿易新報大正年間記事収録』(神奈川新聞社出版局刊)を編纂。また、地域社会における音楽の関わりを模索し、各種団体の設立、企画公演などを手がける。1990年よりシンポジウム「21世紀の横浜の音楽文化を考える」を開催した。 
 
1995年5月、横浜市長の[[高秀秀信]]により、同市では初の女性かつ外部人材となる[[助役]]に起用され(就任は6月1日付)<ref name="ycity950526"/><ref>「初の女性助役誕生へ 齋藤・鶴見大短大部教授を起用」朝日新聞神奈川版1995年5月19日朝刊</ref>、60歳で教職を辞し、公人となる。[[横浜国際競技場]]開業、[[病原性大腸菌]]O157問題<ref>朝日新聞神奈川版1996年7月19日朝刊。齋藤は市の緊急対策本部長を務めた。</ref>、[[消防出初式]]など、幅広い市政に携わった。特に、専門の文化分野においては、文化振興財団前身の美術分野と音楽分野の二度にわたる統合や設立(横浜市美術振興財団と横浜市文化振興財団統合を統合した[[横浜市芸術文化振興財団]])に尽力したほか、[[横浜みなとみらいホール]]の建設期(当初の[[三菱地所]]から運営権を横浜市に譲渡させる)から開業期の運営に力を注いだ。ホール名を市長に提案し採択され、初代ホール館長に[[渡壁煇]]を推挙し、運営の基礎を築いた。1998年5月31日のホール開館は助役として迎えたが、同日をもって自身の申し出により、任期を1年残して退任<ref>横浜市議会平成20年度第2回定例会(1998年5月29日[http://giji.city.yokohama.lg.jp/tenant/yokohama/MinuteView.html?council_id=35&schedule_id=2&is_search=true])</ref><ref name="anp980530">「横浜市に2人目の女性助役 前ILO東京支局長の藤井氏」朝日新聞神奈川版1998年5月30日朝刊</ref>。当時の新聞では、齋藤を含む助役の交代は市政3期目となる高秀が「人事の一新を図ったもの」と報じられている<ref name="anp980530"/>。
 
助役退任後に横浜市芸術文化振興財団理事長に就任。2002年に財団法人名称が変更になり、2006年まで理事長を務める。8年間の在職中に、次期ホール館長に[[池辺晋一郎]]を推挙、[[ジルベスターコンサート]]エグゼクティブディレクターに[[徳永二男]]を選任した。2006年、理事長職を[[澄川喜一]]に引き継ぎ、役職から引退した。これ以外にも横浜市内の数多くの文化事業に関わった。