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蒲洪は施しを好み、[[権謀術数]]に長けていたという。また、勇猛で武芸に優れ、特に騎射の腕に秀でていた。やがて氐族の酋長となると、氐人はみな敬畏の念を抱いて服従したという。
 
[[310年]]、[[前趙]][[皇帝]][[劉聡]]は氐族を仲間に引き入れようと目論み、使者を派遣して蒲洪を平遠将軍に任じる旨を伝えたが、苻洪はこれを受けなかった。その後、護氐校尉・[[秦州]][[刺史]]・[[略陽郡|略陽]]公を自称した<ref>十六国春秋によると、この話は劉曜即位後と記載されている。</ref>
 
[[311年]]6月、[[永嘉の乱]]が起こると、蒲洪は千金を投じて英傑の士をかき集め、今後の身の処し方を協議した。[[宗族]]である[[蒲光]]・[[蒲突]]は、蒲洪を盟主に推戴した。
 
[[319年]]10月、前趙の[[丞相]][[劉曜]]が帝位に即くと、蒲洪はその要請に従い、前趙に帰順した。これにより、劉曜より寧西将軍に任じられ、率義侯に封じられた。
 
[[328年]]12月、劉曜が[[洛陽市|洛陽]]において[[後趙]]王[[石勒]]に敗北して捕らえられると、蒲洪は隴西に移ってその勢力を保った。その後、後趙の中山公[[石虎]]が前趙領の[[上邽]]へ侵攻すると、蒲洪は石虎へ帰順を申し出た。石虎はこれに大いに喜び、六夷軍事<ref>十六国春秋では、監六夷諸軍事と記される</ref>・冠軍将軍に任じ、涇陽伯に封じ、西方の事業を委ねた。
 
=== 石虎の寵臣 ===
[[333年]]8月、石勒がこの世を去ると[[皇太子]][[石弘]]が後を継いだが、実権は石虎が握った。10月、河東王[[石生]]・洛陽を守備する[[石朗]]が石虎討伐の兵を挙げると、蒲洪はこの混乱に乗じて後趙から離反し、[[雍州]]刺史・北平将軍を自称すると共に西進して[[前涼]]君主[[張駿]]に帰順した。石虎は将軍[[麻秋]]に苻洪の討伐を命じると、蒲洪は2万戸を伴って再び石虎へ降伏した。石虎はこれを許し、光烈将軍・護氐校尉に任じた。石生らは石虎に滅ぼされた。蒲洪は長安へ入ると、石虎へ「関中の豪傑と氐羌を京師に移して充実させるべきです。諸々の氐人は皆、我が家の部曲です。我が率いたならば一体誰がこれに背きましょうか!」と勧めた。石虎はこれに同意し、秦州・雍州の民と氐族・羌族の10万戸余りを関東へ移住させた。そして、蒲洪を龍驤将軍・流民都督<ref>晋書では流人都督と記される</ref>に任じ、枋頭に駐屯させた。
 
これ以降、石虎の下で幾度も戦功を上げ、大いに重用されるようになったという。
 
[[338年]]2月、[[段遼]]征伐にも従軍し、その討伐に大いに貢献した。これにより、光烈将軍に任じられ、侯に爵位を進められた。
 
[[338年]]5月、使持節・都督六夷諸軍事・冠軍大将軍に任じられ、[[西平郡]]公に封じられた。さらに、彼の部下2千人余りも[[関内侯]]の爵位を賜り、蒲洪は関内領侯将となった。石虎の養孫である脩成侯[[冉閔|石閔]]は石虎へ「苻洪は才知傑出しており、彼の将兵はみな死力を尽くしており、その諸子も非凡な才覚を有しております。その上、強兵5万を擁して都城近郊に駐屯しております。秘密裏にこれを除き、国家を安定させるべきです」と進言したが、石虎は「我はまさに彼ら父子を頼みとして東呉([[東晋]])と巴蜀([[成漢]])を攻め取らんとしているのだ。どうして殺さなければならんのだ!」と言い、逆にますます厚遇するようになった。
 
[[346年]]5月、後趙の中黄門[[厳生]]は[[尚書]][[朱軌]]に恨みを抱いており、当時長雨が続いて道路整備が滞っていた事もあり、厳生は朱軌が道路の補修を怠り、さらに朝政を誹謗していると讒言した。その為、石虎は朱軌を捕らえたが、蒲洪は「陛下は既に襄国・鄴の宮殿を有しており、その上で長安・洛陽の宮殿を修復しておられます。一体これを何に用いるというのでしょう。また、猟車を千乗も造り、数千里も囲って禽獣を養われ、人妻10万人余りを奪って後宮に入れておられます。聖帝明王がこのような事を為しましょうか?今また、道路が修繕されていないという理由で尚書を殺そうとしておられますが、これは陛下が徳のある政治を修められない事から、天が7旬にも及んで淫雨を降らせたのが原因ではないでしょうか。しかも。晴れてからまだ2日であり、これでは100万の鬼兵を用いたといえども、道路の破損を除く事など出来ません。ましてや、これは人がやる事です!政刑がこのようでは、四海はどうなりましょうか!後の代はどうなりましょうか!願わくばこの作役を中止し、苑囿(動物の囲い場)を廃止し、宮女を返し、朱軌を赦免し、衆人の望みに応えて下さいますよう」と、強く諫言した。石虎はこれを快く思わなかったが、蒲洪を処罰する事は無かった。また、長安と洛陽の労役については中止としたが、朱軌は処刑された。これ以降、石虎は「私論朝政の法」を立法し、官吏がその上司を、奴隷がその主人を告発することを許可したが、これによって公卿以下の朝臣は目を合わせて意思を疎通させるようになり、必要以上に談話しなくなった。やがて[[車騎将軍]]に昇進した。
 
後に渡来僧である[[仏図澄]]もまた石虎へ「蒲氏には王の気が見られます。急ぎこれを除いてくださいますよう。」と請うたので、石虎は次第に蒲洪を殺そうと考えるようになった。その為、蒲洪は病と称して入朝しなくなった。
やがて[[車騎将軍]]に昇進した。
 
[[349年]]1月、高力督[[梁犢]]が謀反を起こし、その数は10万にも及んだ。反乱軍は長安・洛陽を突破し、滎陽・陳留へ侵犯し、後趙軍はこれに幾度も敗北した。 蒲洪は征虜将軍石閔・燕王[[石斌]]・統冠将軍[[姚弋仲]]と共に[[ケイ陽市|滎陽]]において梁犢を大破し、梁犢の首級を挙げた。さらに、その残党勢力も掃討した。功績により、蒲洪は車騎大将軍、開府儀同三司・都督雍秦州諸軍事・雍州刺史に任じられ、略陽郡公へ封された。
 
=== 枋頭に割拠 ===
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同月、蒲洪は密かに[[関西 (曖昧さ回避)|関西]]に割拠しようと目論んでおり、姚弋仲もまた同じ考えを抱いていた。姚弋仲は子の[[姚襄]]に5万の兵を与えて蒲洪を攻撃させたが、蒲洪はこれを迎撃して大勝を挙げ、3万以上の兵を討ち取った。
 
安定出身梁楞らを始めとした関西の民はみな、蒲洪へ「胡運(後趙の国運)はまさ帝位終わり、中原は騒乱しておりますが、明公の神武は必ずや大業を成し遂げる事でしょう。周漢倣って尊号を称し、四海の望みに従ってださいますよう」と勧める者がいた。ま、讖緯には「艸付應王」とあり、孫の[[蒲堅]]の背には「艸付」の字があった。この事から、苻洪と名を改め、[[大都督]]・[[大将軍]]・[[単于|大単于]]・三秦王を自称した。さらに、[[南安郡|南安]]出身の[[雷弱兒]]を輔国将軍に任じ、[[安定郡|安定]]出身の[[梁楞]]を[[前将軍]]・左長史に任じ、[[馮翊郡|馮翊]]出身の[[魚遵]]を後将軍・右長史に任じ、[[京兆郡|京兆]]出身の[[段陵]]を左将軍・左司馬に任じ、[[王堕]]を右将軍・右司馬に任じ、[[天水郡|天水]]出身の[[趙俱]]・隴西出身の[[牛夷]]・[[北地郡|北地]]出身の[[辛牢]]を従事中郎に任じ、氐族酋長の[[毛貴]]を单于輔相に任じられた。苻洪は博士[[胡文]]へ「我が兵10万を率い、堅牢な地を抑えれば、冉閔・慕容儁など望めばいつでも滅ぼせよう。姚襄父子に打ち勝つのも我が術中の内である。我が天下を取るのは、[[前漢|漢]][[劉邦|高祖]]より容易いだろう。」と語った。
 
=== 最期 ===