「沖縄県」の版間の差分

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[[琉球処分]]の際、[[明治|明治政府]]内では「'''琉球県'''」の名称も検討された。これは[[1879年]](明治12年)、[[琉球藩]]を廃して沖縄県が設置される際に俎上に上っていたものである。内務卿の[[伊藤博文]]から太政大臣の[[三条実美]]に提出した同年3月1日付の琉球処分に関する文章には「琉球藩ヲ廃シ、更ニ琉球県ヲ被置候、此旨布告候事但県庁ハ首里ニ被置候事」とあり、琉球県の名称が使われていたが採用には至らなかった。この間の経緯は不明であるが、[[中国語]]由来の琉球に対し、沖縄のほうがより日本帰属の意思が明確になるため選ばれたと推察できる。用語としての「沖縄」は元々は[[沖縄本島]]を指す言葉であったが、沖縄県設置により鹿児島県[[奄美群島]]を除く[[琉球諸島]]全域が沖縄と呼ばれるようになり、より広義に解釈されるようにもなった<ref>『琉球史辞典』[[中山盛茂]] 著、琉球文教図書、1969年</ref>。
 
[[与那国島]]は日本最西端の[[領土]]であり、[[八重山郡]][[与那国町]]は日本の最西端の[[地方自治体]]でもある。また正確な日本の東西南北の最端部の中で唯一自由に訪れることができる場所である。
 
[[尖閣諸島]]は同県[[石垣市]]に属しており日本が実効支配している日本固有の領土だが、[[中華人民共和国]]および[[中華民国]]([[台湾]])は尖閣諸島(あるいは沖縄県全土)の領有権を主張している。([[中華民国#沖縄県への認識|参照1]]、[[中国人による沖縄県への認識|参照2]]、および「[[尖閣諸島問題]]」、「[[中国人による沖縄県への認識]]」を参照)。
 
同地にはかつて[[三山時代|三山]]を統一した[[尚巴志王|尚巴志]]により建国された[[琉球王国]]が存在し、[[明国]]や[[清国]]に[[朝貢]]し[[冊封]]を受けていた([[第一尚氏王朝]])。[[1469年]]、首里城でクーデターが起き、家臣の金丸(後に[[尚円王]]と号す)が王位を[[簒奪]]する([[第二尚氏王朝]])。[[1609年]]([[慶長]]14年)に[[薩摩藩]]の侵攻を受け[[尚寧王]]は降伏し、当時王国の領土であった[[奄美群島]]は薩摩藩に割譲<ref>ただし名目上は琉球の一部とされた。詳細は[[奄美群島の歴史]]を参照。</ref>、[[王府]]は薩摩藩の影響下におかれた([[琉球侵攻]])。以来、琉球王国は日本の薩摩藩と清国に『両属』する曖昧な国際的地位となっていたが、[[鎖国]]体制下の両国の[[中継貿易]]地としての役割を担い、交易を通じて独自の地位と文化を保っていた。
 
近代に入り日本本土で[[明治維新]]がおこり[[開国]]したことを受け清国との間に外交関係が樹立されると[[中央集権]]国家の確立を急ぐ明治政府の命により琉球王国は[[琉球藩]]に、後に[[廃藩置県]]で'''沖縄県'''となり、[[尚泰王]]は強制廃位させられ約450年間続いた琉球王国は名実共に消滅した([[琉球処分]])。清国は日本側の一方的な処分に抗議するなど帰属問題は尾を引いていたが、後に[[日清戦争]]で日本が勝利したことにより沖縄の領有権が最終的に確定した。琉球王国時代の城跡遺跡は『[[琉球王国のグスク及び関連遺産群]]』として[[ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録されている。
 
[[1945年]]([[昭和]]20年)、[[第二次世界大戦]]では『唯一の地上戦』と呼ばれる<ref>「唯一」という言葉については議論がある。[http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-162452-storytopic-3.html 沖縄地上戦 国内唯一→国内最大 政府が閣議決定](琉球新報)</ref> [[沖縄戦]]の戦場となった。米軍は[[4月1日]]に沖縄本島の[[読谷村]]の海岸に上陸し、瞬く間に北半分を制圧、米軍の総攻撃を受け日本軍は南部に追い込まれ、総司令部が置かれていた[[首里城]]も焼け落ち、[[6月23日]]に沖縄守備軍最高指揮官の[[牛島満]]中将らが[[摩文仁]]で自決したことで組織的戦闘は終結した。約3カ月に及ぶ激戦により県民の4人に1人が犠牲になり土地も荒廃した。現在、摩文仁は[[沖縄戦跡国定公園]]に指定されており、6月23日は[[慰霊の日]]として沖縄県の休日となっている。
 
戦後、南西諸島は米軍の占領下におかれ、'''沖縄県は一旦消滅'''した([[アメリカ合衆国による沖縄統治]])。米軍主導のもと新たに『[[琉球政府]]』が誕生、基地建設のため集落や農地を大規模に接収し、[[730 (交通)|右側通行の道路]]を整備し、通貨として[[B円]]、後に[[米ドル]]を使用させ、日本本土への渡航に[[パスポート]]が必要になるなど、米国流のやり方で戦後復興が進められていった。[[1952年]](昭和27年)に[[日本国との平和条約|本土が主権回復]]した後も引き続き沖縄は米軍の統治下におかれた。[[1950年代]]以降になると[[朝鮮戦争]]や[[ベトナム戦争]]が勃発し、沖縄は米軍の前線補給基地として重要度を増し、数多くの米軍人が駐留、[[B-52 (航空機)|B-52]]等の[[戦略爆撃機]]や[[枯葉剤]]や[[核兵器]]といった[[大量破壊兵器]]も多数配備され、ベトナムからは『悪魔の島』と恐れられた<ref>「1962年・沖縄 「核兵器庫」の嘉手納」毎日新聞2016年2月20日 東京夕刊</ref>。経済は基地に大きく依存していた一方で、当時ドル高円安の[[固定相場制]]の影響もあり物価は安く生活は安定しており、人口は終戦直後の約50万人から本土に復帰する直前にはほぼ倍になるまで増加した。しかし米軍による強権的・差別的な施政に島民は強い反感を抱き、本土への復帰を求める大規模な反基地運動が各地で展開されていった([[島ぐるみ闘争]])。[[1971年]](昭和46年)に[[佐藤栄作]]首相と[[リチャード・ニクソン]]大統領との間で[[沖縄返還協定]]が締結され、翌[[1972年]](昭和47年)に沖縄は日本に返還され'''沖縄県が復活'''した。([[沖縄返還]])<ref>ただし沖縄復帰を前に制定された「[[沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律]]」では、戦前の沖縄県が地方自治法に定める県として建前上存続するものとされた。</ref><ref>なお復帰に際して日本は米国に対し総額3億2000万ドルを支払っている(現在の為替レート(2016年10月時点)で約5000億円)</ref>。米軍統治時代から続く基地問題や[[不発弾]]の問題、[[日米地位協定]]の問題は当県の主要な政治課題となっている(「[[普天間基地移設問題]]」を参照)。
 
歴史的経緯・文化・風習・習慣・人名・方言・[[経済]]・制度的にも本土のそれとは大きく異なり、俗に県外のことを「[[内地]](ナイチ)」、県民以外の人を「内地人(ナイチャー)」と呼び分ける場合がある。
 
日本屈指の[[リゾート]]地であり、歴史文化・[[沖縄料理]]・[[レジャー]]・[[マリンスポーツ]]・[[戦争遺跡]]などを強みに[[観光]]分野に特に力を入れており、観光業を含む[[第三次産業]]が79.2[[パーセント|%]]を占めている一方で[[第一次産業]]は5.4%、[[第二次産業]]は15.4%と非常に低い<ref>[http://www.pref.okinawa.jp/kodomo/sangyo/c1_uchiw.html 沖縄の産業/産業のうちわけ] - 2014-12-4閲覧</ref>。
 
また格闘技界においては[[空手]]の発祥の地として世界的に有名であり、多数の外国人門下生が県内の道場に入門し稽古している。
 
== 名称 ==
「沖縄(おきなわ)」という地名の由来は、「沖あいの漁場」を意味する「おき(沖)な(魚)は(場)」を由来とする説([[伊波普猷]])と、「沖にある場所」「遠い場所」を意味する「おき(沖・遠い)なは(場所)」を由来とする説([[東恩納寛惇]])とがあるが、いずれも定説には至っていない。
 
[[淡海三船]]が著した[[鑑真]]の伝記『唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)』(779年成立)では、[[天平勝宝]]5年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]([[754年]]1月9日)遣唐使一行が阿児奈波島(おきなわじま/あじなわじま/あこなはじま)に漂着したと記されており、この島は沖縄本島のことを指していたという<ref>「沖縄コンパクト事典」阿児奈波島(あこなはじま) 琉球新報社発行2003年3月1日</ref>。のちに中国による呼称の琉球と呼ばれるようになったようである。この琉球の語源についてもまだ明らかになっていない。
 
[[琉球処分]]の際、[[明治|明治政府]]内では「'''琉球県'''」の名称も検討された。これは[[1879年]](明治12年)、[[琉球藩]]を廃して沖縄県が設置される際に俎上に上っていたものである。内務卿の[[伊藤博文]]から太政大臣の[[三条実美]]に提出した同年3月1日付の琉球処分に関する文章には「琉球藩ヲ廃シ、更ニ琉球県ヲ被置候、此旨布告候事但県庁ハ首里ニ被置候事」とあり、琉球県の名称が使われていたが採用には至らなかった。この間の経緯は不明であるが、[[中国語]]由来の琉球に対し、沖縄のほうがより日本帰属の意思が明確になるため選ばれたと推察できる。用語としての「沖縄」は元々は[[沖縄本島]]を指す言葉であったが、沖縄県設置により鹿児島県[[奄美群島]]を除く[[琉球諸島]]全域が沖縄と呼ばれるようになり、より広義に解釈されるようにもなった<ref>『琉球史辞典』[[中山盛茂]] 著、琉球文教図書、1969年</ref>。
 
== 地理・地域 ==