「憲兵 (日本軍)」の版間の差分

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日本陸軍においては、[[1881年]](明治14年)、[[フランス]]の[[国家憲兵]]制度([[フランス国家憲兵隊]])を範として、憲兵条例<ref>憲兵条例は[[1898年|明治31年]]勅令第337号によって全面改正された。更に、[[1929年|昭和4年]]勅令第65号により憲兵条例は憲兵令に改題された。</ref>により設置された。なお、この憲兵条例等の[[勅令]]により置かれる憲兵を'''勅令憲兵'''(ちょくれいけんぺい)といい、このほかに[[軍令]]により編成され[[軍]][[司令官]]の命令に服する憲兵を'''軍令憲兵'''(ぐんれいけんぺい)という。本項では特記のない限り勅令憲兵について詳述する。
 
名称は「警兵」とするはずであったともいわれる<ref name="keishichoshi">『警視庁史 明治編』、警視庁史編さん委員会(1959年)、165-167頁</ref>が、明治61873年3月12日の陸軍省条例にすでに「憲兵」の語が使われていたことから「憲兵」とされたという。憲兵制度は、[[竹橋事件]]の影響や、[[自由民権運動]]の牽制、[[警視庁 (内務省)|警視庁]]の[[薩摩藩|薩摩]][[藩閥|閥]]勢力の減殺などのために創設されたともいわれる<ref name="keishichoshi"/>。
 
憲兵設立の際、警視庁は憲兵部を設置して、警察官から憲兵への転出人事を行っている<ref name="obinata">[[大日方純夫]] 『日本近代国家の成立と警察』 校倉書房 p.135~136</ref>。旧警視局から転出して憲兵になることが予定された警察官は835人であり、これは東京憲兵隊の定員1612人(1881年3月現在)の53%に相当した<ref name="obinata"/>。初代東京憲兵隊長には、警察出身の[[三間正弘]]([[警視隊|別働第3旅団]]参謀)が任命されている<ref name="obinata"/>。憲兵少尉以上の35人(1882年9月現在)のうち、20人が警察出身だった<ref name="obinata"/>。警察から憲兵に転出した警察官は、[[西南戦争]]の際に動員された警察官であった([[新選旅団]]・[[警視隊]])<ref name="obinata"/>。憲兵設置のその日に、警視庁の警備掛は廃止され、旧警視局所管の兵器が全て[[陸軍省]]に納付されている<ref name="obinata"/>。
 
[[東京府会]]は、「憲兵の配置は警察力の増強である」として、警察費を大幅に削減し、巡査の定員が半減した(明治7(1874年1月の巡査の定員6000名、明治141881年3月は3160名)<ref name="keishichoshi"/>。
 
なお、[[明治]]時代に置かれていた[[屯田兵]]について、平時は「屯田兵ハ徒歩憲兵ニ編制」([[屯田兵例則]])するものとされ、警察が十分に整備されていない開拓時代の[[北海道]]において[[治安維持]]に当るものとされた。そして、「屯田兵諸勤務ハ凡ソ憲兵ノ規則ニ據ルヘシト雖モ目下北海道ニ於テハ人民寡少事務閑暇ナルヲ以テ其細目ノ如キ之ヲ行フトキハ却テ径庭ヲ生スヘキカ故ニ各長官ノ適宜ニ処分スルヲ以テ可トスヘシ」(屯田兵例則)とされ、憲兵勤務は事実上、長官の裁量に委ねられた。その結果、屯田兵が実態として憲兵任務を担うことはなかった。