「モノクローム・セット」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
infobox、出典、他
m 修整
2行目:
|名前 = モノクローム・セット
|画像 = The Monochrome Set 01.jpg
|画像説明 = 「The Monochrome Set」 2016年 ドイツ「Club W71」にて
|画像サイズ = <!-- サイズが幅250ピクセルに満たない場合のみ記入 -->
|画像補正 = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 -->
15行目:
|公式サイト = [http://www.themonochromeset.co.uk/ The Official Monochrome Set Site]
|メンバー = ビド<br />アンディー・ウォーレン<br />Mike Urban<br/>John Paul Moran
|旧メンバー = <br />レスター・スクエア<br />J.D.ヘイニー<br/>トニー・ポッツ<br/>Jeremy Harrington<br/>Philip Morris<br/>レキシントン・クレイン<br/>Orson Presence<br/>キャリー・ブース<br/>ニコラス・ウェロソフスキ<br/>ジェイムス・フォスター<br />Jennifer Denitto<br/>Steve Brummel
}}
 
26行目:
 
[[アンディー・ウォーホル]]は彼等のサウンドについて「[[ベンチャーズ]]と[[ヴェルヴェット・アンダーグラウンド]]を足して2で割った様」だと評した<ref name="80GP" />。
また、Monochrome setとは[[白黒テレビ]]を意味する<ref name="80GP" />。
 
== 歴史 ==
結成は[[1978年]]であり、紆余曲折を経て1979年に以下のメンバーに至った。
B-サイズ(後の[[アダム&ジ・アンツ]])に在籍していたビド(vo)(Bid)、レスター・スクェア(g)(Lester Square)、アンディー・ウォーレン(b)(Andy Warren)の3人と、元アート・アタックスのJ.D.ヘイニー(ds)(J.D.Haney)、トニー・ポッツ(Film)(Tony Potts)が初期(最盛期)の主なメンバーである<ref name="80GP" />。
 
1980年には、[[ヴァージン・レコード]]系DinDiscから、Bob Sargeantによって制作されたアルバム「ストレンジ・ブティック」を発表した。それは1980年にアルバム・チャートのNo.62に達した。彼らのフォローアップ活動であるLove Zombiesは、同年後半にアルヴィン・クラークとバンドによって結成された。Haneyは1981年にバンドを去り、Lexington Craneに交代した。
 
1982年、バンドは[[チェリーレッド・レコード|Cherry Red]]にレーベルを切り替えて、Tim Hartによって制作されたサード・アルバム「Eligible Bachelors」をリリースした<ref>{{Cite web |author=村尾 泰郎 |date=2006-11-22 |url=http://tower.jp/article/feature/2006/11/22/100035386/100035387/100035389 |title=WHEN THE PARTY IS OVER... 80年代初頭に一大ムーヴメントを起こしたネオアコってなんだ? |website=TOWER RECORDS ONLINE |publisher=[[タワーレコード]] |accessdate=2018-06-17 }}</ref>。スクエアとクレインはすぐに脱退し、キーボードのキャリー・ブースとドラマー、ニコラス・ヴェロソフスキに交代した。 このラインナップは、ブースが新しいリード・ギタリストのジェームス・フォスター(後にDavid Devant&His Spirit Wife)に代わる前に、Cherry Redのために1982年にシングル「キャスト・ア・ロング・シャドウ」を収録した。
 
1983年、Cherry Redは、初期のRough Tradeシングル、[[BBC]]とCapital Radioのセッション、未発表の初期セッションの回顧録、Volume、Contrast、Brilliance ...をリリースした。
結局、彼らの所属レーベルは、ラフ・トレード、[[ヴァージン・レコード]]傘下のディン・ディスク(Din Disc)、プレ(Pre)、[[チェリー・レッド・レコード|チェリー・レッド]]、[[ブランコ・イ・ネグロ・レコード|ブランコ・イ・ネグロ]]と転々としたが、グループは1985年に解散することとなった。
 
解散後ビドはソロ活動を行いラジ・カルテットと名乗りシングルもリリースした。
レスターはJesus Couldn't Drumのアルバム"Good Monornin' Lester Square"に参加したり、インヴィジブル (The Invisible) を結成した。
メンバーだった数名はウッド・ビィ・グッズ(Would be goods)のデビュー・アルバムのバックでも参加した。
 
[[1990年]]に再結成し、初来日(1990年7月)も果たした<ref name="80GP" />。
その後も再来日した([[CLUB CITTA'|川崎チッタ]]では丁度、[[節分]]の時期であったことから、麦わら帽子をかぶったレスターがステージで[[豆まき]]をおこなった)。1990年から1998年まで活動し、二度目の解散。2008年に再々結成し、三度目の活動を続けている。