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胥臣は郤缺を連れて帰り、文公に推挙したが、文公は嫌な顔をした。
文公が「何によって彼が賢人だと分かるのか」と聞くと、胥臣は「私は彼が敬を忘れていない事を見ました。敬とは徳の慎み深さです。徳を慎んで事を行えば成らぬ事はありません」と答えた。
また文公は、「その者の父(郤芮)は私を殺そうとした罪がある。それでも用いよと申すか」と言った。すると胥臣は、「[[舜]]は[[鯀]]を殺しましたが、その子の[[禹]]を用いました。[[管仲|管敬仲]]は[[桓公 (斉)|桓公]]を殺そうとしましたが、桓公はこれを用いて覇業を成し遂げました」と言ったので、文公は遂に郤缺に会って下軍大夫とした。
 
文公が死に、[[襄公 (晋)|襄公]]の代になると、郤缺は[[狄]]を討って功を立て、父の郤芮の封地であった冀を賜ったが、用心されたために兵は与えられなかった。
 
=== 士会を呼び戻す ===
[[趙盾]]が宰相となり襄公が死ぬと、趙盾は[[霊公 (晋)|霊公]]を立てたが、[[秦]]に亡命した[[士会]]が秦[[康公 (秦)|康公]]に用いられて、晋を苦しめだすと、趙盾は[[晋 (春秋)#政治・軍制|六卿]]を集めて「随会([[士会]])は秦におり、賈季([[狐射姑]])は[[狄]]にいて、そのため毎日のように国難がやってくる。どうしたらよいか」と諮った。
[[荀林父]]は「賈季を戻しましょう。彼は国外の事情に通じており、物事を処理する才能があり、そのうえ殊勲者の子です」と言ったが、郤缺は「賈季は謀反人です。その罪は重い。随会を戻しましょう。彼は身分は卑しくとも恥をわきまえており、柔順でありながら人に唆されて不義を為すことがなく、その智謀は国の役に立つ」と言ったので、趙盾は士会を戻すことに決めた。
そして[[紀元前614年]]、郤缺は策略を用いて士会を秦から取り戻し、彼を再び晋の大夫へと復帰させた。
 
=== 正卿として ===
やがて霊公が[[趙穿]]に殺されて、[[成公 (晋)|成公]]の時代になると、郤缺は成公から信頼されて[[晋 (春秋)#政治・軍制|正卿]]の地位につく。謀反人の子である郤缺が宰相になったのをみて、人々は郤缺の徳を褒め称えた。
 
成公が死んで、[[景公 (晋)|景公]]の代になると、[[赤狄]]の動きが活発化したので、[[紀元前598年]]に郤缺は狄の諸部族に和睦を申し入れた。赤狄に使役されることを嫌い、晋に服従を申し入れる部族がかなりの数に昇ったので、晋の大夫達は狄の諸族を晋に呼びつけて会合しようとしたが、郤缺は「こちらが勤労しないようでは、人を従えることは到底出来ません」と言ったので[[景公 (晋)|景公]]は自ら赴いて狄の諸族と会合した。狄の諸族はこの会合に信義をみて以後よくなついた。
 
翌紀元前597年に郤缺は死去。死後、「'''成'''」を諡され、'''郤成子'''と呼ばれる。郤缺の後を継いだ子の[[郤克]]も、後に晋の正卿となった。