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=== 五・四運動の影響 ===
1915年、第一次世界大戦中の日本が[[対華21ヶ条要求]]を北京政府に要求。[[1917年]]には[[ロシア革命]]が起きる。[[第一次世界大戦]]後の[[1919年]]1月の[[パリ講和会議]]によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「[[抗]]愛国運動」が盛り上がった。[[五・四運動]]である。
 
この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく<ref>[[#天児2004|天児 2004]], p.61</ref>。[[陳独秀]]や[[毛沢東]]もこのときにマルクス主義に急接近する。この日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した<ref name="amako2004p63">[[#天児2004|天児 2004]], p.63</ref>。
旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、[[ボリシェビキ]]をモデルとした<ref name="amako2004p63" />。実際に、のちにロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある<ref name="amako2004p63" />。