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==== サッカー ====
サッカーの強豪国のうちの一つだった。[[FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]には[[1930年]]の第1大会から出場している。ワールドカップでの最高成績は[[1930 FIFAワールドカップ|1930年大会]]のベスト4(3位決定戦は無し)、および[[1962 FIFAワールドカップ|1962年大会]]の4位等がある。[[UEFA欧州選手権|ヨーロッパ選手権]]では[[1960 欧州ネイションズカップ|1960年大会]]、[[UEFA欧州選手権1968|1968年大会]]での準優勝がある。年齢別の大会では[[1987年]]の[[1987 FIFAワールドユース選手権|ワールドユース]]での優勝がある。
 
[[1960年代]]以降、ユーゴスラビアが国際的なタイトルに最も近づいたのは[[ドラガン・ストイコビッチ]]、[[デヤン・サビチェビッチ]]、[[ロベルト・プロシネチキ]]、[[ズボニミール・ボバン]]、[[スレチコ・カタネッツ]]、[[ダルコ・パンチェフ]]を擁した[[1980年代]]後半になってからで、監督は[[イビチャ・オシム]]だった。しかし[[1990年]][[5月13日]]には国内リーグの[[ディナモ・ザグレブ]]対[[レッドスター・ベオグラード]]戦で試合開始前から暴動が発生するなど民族対立が持ち込まれて混乱を来たし、代表チームの結束も危ぶまれたものの、[[1990 FIFAワールドカップ|1990年イタリア大会]]では準々決勝で一人少ないながらも優勝候補だった[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]に120分間でドロー。PKで敗退したものの、1992年のヨーロッパ選手権の優勝候補に推す者が後を絶たないほど強烈な印象を残していった。
 
しかし一方でユーゴスラビアの解体が進んでおり、1991年までに行われたヨーロッパ選手権予選を勝ち上がったものの、同年スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアを離脱。更に本大会直前になってボスニア・ヘルツェゴビナもユーゴスラビアを離脱。ユーゴスラビア連邦軍が[[サラエヴォ]]に侵攻するにあたって監督のイビチャ・オシムが辞任。国連はユーゴスラビアに対しての制裁を決定し、これに呼応して[[国際サッカー連盟|FIFA]]、[[欧州サッカー連盟|UEFA]]はユーゴスラビア代表の国際大会からの締め出しを決定。既に開催国である[[スウェーデン]]入りしていたユーゴスラビア代表は帰国し、ユーゴスラビアの解体と共にユーゴスラビア代表も解体してしまった。この大会の優勝はユーゴスラビアに代わって出場したデンマークだった。ユーゴスラビアの経歴と記録は[[サッカーセルビア・モンテネグロ代表|ユーゴスラビア連邦共和国→セルビア・モンテネグロ]]→[[サッカーセルビア代表|セルビア]]が引き継いでいる
 
旧ユーゴスラビア構成諸国家にも、強豪としてのユーゴスラビアの伝統は継承され、[[1998 サッカー・ワールドカップ|1998年フランスFIFAワールドカップ]]では、ユーゴスラビア連邦共和国とクロアチアが出場し、特にクロアチアが3位に入り大きな驚きを呼んだ。更にまたサッカーが盛んとは言えないスロベニアも[[UEFA欧州選手権2000|2000年のヨーロッパ選手権]]本大会、[[2002 FIFAワールドカップ|2002年日韓ワールドカップ]]と続けて本大会に出場しこれも大いに驚かされた。さらに[[2014 FIFAワールドカップ]]ではボスニア・ヘルツェゴビナが初出場を果たした。こうしたユーゴスラビアの強さの秘密の一つとしてサッカーをアカデミックに捉える試みが行われた事が上げられる。大学の講座の一つとしてサッカーのコーチングが教えられており、旧ユーゴスラビア出身の監督の多くはこれらの修士号や博士号を持っている場合が多い。また、旧ユーゴスラビア諸国出身のサッカー監督は極めて多いと言える。
 
==== オリンピック ====