「トグス・テムル」の版間の差分

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松照庵 (会話 | 投稿記録)
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| 全名 =
| 配偶者1 =
| 子女 = [[ティヌ]]、[[ィボヌ]]
| 王家 = [[クビライ家]]
| 王朝 =
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[[天元 (北元)|天元]]9年([[1387年]])、東北方面に勢力を持つ[[ジャライル]]部の[[ナガチュ]]が明の北伐を受けて窮地に陥ったことを受け、東方に向かって遠征を行った。しかしナガチュは明に降伏してしまい、トグス・テムルも翌年に[[ホロンボイル]]地方の[[ブイル湖|ブイル・ノール]]で明の将軍[[藍玉 (明)|藍玉]]と戦って大敗した。この戦いで元軍はトグス・テムルの皇后をはじめ、8万と言われる多数の軍民を捕虜とされて大半が壊滅した。
 
トグス・テムルは[[カラコルム]]を目指して落ち延びたが、途中で高原西部に勢力を持つ[[アリクブケ]]系統の王族[[イェスデル]]の襲撃を受け、その残軍もほとんど壊滅した。トグス・テムルはわずか16騎とともに辛くも逃げ延びたものの、大雪に阻まれてカラコルムにたどり着けないでいるうちにイェスデルの軍に追いつかれて捕らえられ、殺害された。トグス・テムルには2人の男子がいたが、長男の[[ティヌ]](天保奴)は父とともに殺害され、ブイル・ノールで捕虜となった次男の[[ィボヌ]](地保奴)は明によって[[琉球]]に流されたため、クビライ王統はここに一旦断絶した。
 
トグス・テムルを殺害したイェスデルは自らハーンに即位するが、その王統は長続きせず、モンゴルは長い混乱期に入ることになる。