「アマチュアリズム」の版間の差分

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== ジム・ソープ事件 ==
初期のオリンピックにおけるアマチュアリズムに関わる事件としては、アメリカの陸上競技選手だった[[ジム・ソープ]]のケースが挙げられる。[[1912年]]の[[1912年ストックホルムオリンピック|ストックホルムオリンピック]]の[[十種競技]]と[[五種競技]]の金メダリストとなったソープは、野球の[[マイナーリーグ]]でのプレー歴があった(詳細はソープの項目を参照)ことが大会終了後明るみに出たため、翌1913年に金メダル剥奪・記録抹消という厳しい処分を受けた<ref name=sportsnavi>{{cite web|url=http://archive.sportsnavi.yahoo.co.jp/special/athens/data/history/1912.html|title=五輪の歴史 History of the Olympic Games|work=スポーツナビ|accessdate=2013.9.21}}</ref>。69年後の[[1982年]]にIOCはソープの復権を決定し、金メダリストとして認定された<ref name=sportsnavi/>。ソープの死去から29年後のことである
 
== 休業補償問題 ==
労働者階級の選手が大会に出場する場合、その間の賃金を補償すべきかどうかという点が、早い時期から問題になっていた。この件に関し、[[国際サッカー連盟]]はそうした補償を行った選手もアマチュアであると認定したが、IOCはこれを認めず、それが原因で[[1932年]]の[[1932年ロサンゼルスオリンピック (1932年)|ロサンゼルスオリンピック]]においてはサッカーが実施されないという事態を招いた。IOCは長い議論の末に[[1962年]]の憲章改正で、オリンピックの参加選手に対する休業補償を認めるに至ったが、これは同時にプロ容認への第一歩でもあった。
 
== アベリー・ブランデージとアマチュアリズムの変容 ==
第5代IOC会長(1952-72年)を務めた[[アベリー・ブランデージ]]は、原理主義的なアマチュアリズムを唱え、「ミスター・アマチュア(リズム)」と呼ばれた。しかし、皮肉なことに彼の在任中にスポーツを取り巻く環境は大きく変わり、アマチュアリズムとの乖離が進行した。
 
彼がIOC会長に就任した年に開催された[[1952年ヘルシンキオリンピック|ヘルシンキオリンピック]]から[[ソビエト連邦|ソ連]]がオリンピックに参加する。このソ連をはじめとする東欧の社会主義諸国は、それらの国においては興行としてスポーツを行う者がいないため、スポーツ選手はすべてアマチュアであると主張していた。しかし、実際には国家によって選抜されたメンバーを専門的にトレーニングするシステムが作られており、彼らはもっぱらトレーニングのみを行っていた。事実上プロに等しいこうした選手は「ステート・アマ」と呼ばれるようになる。また、上記の休業補償を認めたことから、西側の選手も日常的にスポーツしか行っていない者が多くを占めるようになり、[[1971年]]のIOC総会では[[1972年ミュンヘンオリンピック|ミュンヘンオリンピック]]の組織委員長から、すべての国の選手が「[[ステート・アマ]]」化しているという質問状が提出されるに至った。
 
しかし、ブランデージはなおもアマチュアリズムの維持にこだわった。アルペンスキーを中心に、用具メーカーからの供与とその実質的な宣伝を選手が行っていた冬季大会について彼は批判的であり、冬季オリンピックは将来廃止されるべきであると主張していた。そして、IOCは[[1972年札幌オリンピック|札幌オリンピック]]の際に、オーストリアのアルペンスキー選手である[[カール・シュランツ]]に対して、「名前や写真を広告に使わせた」という理由でアマチュア資格違反とみなし、開会式の前に選手村から追放する処分を行った。しかし、これは多くの目には見せしめの処分と映り、結果的にこの年で退任したブランデージの最後のあだ花となった。
 
IOC会長が6代目の[[キラニン男爵]][[マイケル・モリス (第3代キラニン男爵)|マイケル・モリス]]に交代して早々の[[1974年]]のIOC総会で、ついにオリンピック憲章からアマチュア規定が削除されるに至った。
 
== 出典 ==
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