「ナイジェル・マンセル」の版間の差分

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==== 悲願成就 ====
[[ファイル:Williams FW14B.jpg|thumb|240px|right|ウィリアムズ・ルノーFW14B(1992年)]]
[[1992年]]、ウィリアムズは[[アクティブサスペンション]]<ref group="注釈">ロータスが商標を保有したため、ウィリアムズが開発した装置は「リアクティブ・サスペンション」と呼ばれる。</ref>などの[[ハイテク]]機器を搭載した[[ウィリアムズ・FW14|FW14B]]で序盤から圧倒的な速さを見せる。マンセルはチームメイトの[[リカルド・パトレーゼ]]をも圧倒し、前年のセナの開幕4連勝を上回る開幕5連勝、さらに第8戦フランスグランプリから第10戦ドイツグランプリまで3連勝を達成。過去の苦い経験が嘘のようにチャンピオン争いを独走する。第11戦ハンガリーグランプリにおいてついに念願のワールドチャンピオンに輝き、表彰台で男泣きした。最終的に16戦中14回のポールポジション、計9勝(すべてポールトゥーウィン)を記録して、1988年のセナの記録13ポールポジション、8勝を塗り替えた。年間最多ポールポジション記録は{{f1|2011}}に[[セバスチャン・ベッテル]]が18全1915ポールポジションを記録するまで19年間破られなかったただし年間占拠率に換算すると、2011年のベッテルは約78.9%に対し、1992年のマンセルは87.5%に達し、その場合マンセルの記録は未だ破られていない。また1980年のデビューから12年経過しており、当時の[[マリオ・アンドレッティ]]の10年を破り「デビューから最も遅いチャンピオン」であった<ref>『F1サーカスのヒーローたち』p.95。</ref>。
 
しかし一方で、ウイリアムズのオーナー、[[フランク・ウィリアムズ]]は自チームのマシンなら誰が乗ってもタイトルを取れると確信しており、セナやプロストも加わりシート争奪戦が加熱した。プロストは前年からウィリアムズと接触し、ハンガリーグランプリ前に1993年の契約に成功。その契約ではプロストはセカンドドライバーを選べるオプションがあり、プロストはセナを拒否することができた。マンセルにしてみれば年間チャンピオンを獲得したにもかかわらず、年俸ダウンかつジョイントナンバー1扱いという内容ではあったが、一度はその契約条件を呑んだ。しかし、セナがマスコミを通じて「ウィリアムズに乗れるなら無給でもいい」と発したメッセージをフランク・ウィリアムズが契約交渉に持ち出し、(プロストとの契約上)セナが加入する可能性はないにもかかわらず大幅な年俸ダウンを提示した。